福知山市大江町河守の町並み
大江町河守
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大江町河守の町並み

 大江町河守は京都府北西部で由良川の中流域に位置する。早くから由良川を中心に開拓されていた。
関ヶ原の戦い後、この地には細川氏に代わり京極高知氏が田辺城に入封したが、元和8年(1622)高知の死没により、宮津藩・田辺藩・峰山藩と3子に分割された。
河守は宮津藩領となり明治を迎える。
江戸後期の河守について「丹後風土記残欠」には「河守村、俗川森とも、船着也、福知山より三里船にても同じ、河守町長さ5町ばかり、商家、茶屋、宿場多くよき町並みなり、外宮へ半里」と記し、丹波と奥丹後を結ぶ宮津街道と田辺(舞鶴)に向かう河守街道の交わる交通の要衝で宿場町であった。
そして近郷の櫨実・桐実・繭などの原料を集荷して、蝋燭・桐油・生糸を製造する地として栄え、河守の南を流れる由良川は物資輸送の幹線として利用されたが、反面同川は氾濫を繰り返して、住民生活に打撃を与えていた。
明治14年〜17年にかけて編纂された「京都府地誌」によると、家数175・人数1,112とあり、農業135・商業110・工業20などとある。
産物として江戸期は蝋燭であったが、明治に入り養蚕に代わり、重要産物となり、全盛期の大正10年には13万余kgの収繭量があった。 
古い町並みは山裾の旧宮津街道沿いに展開している。国道175号線は旧街道の東側を通ったため、古い町並みはチルド保存された格好だ。でも、江戸時代に遡る建物は少ないようで、明治・大正・昭和と建築年代は異なるが、新しい様式の町家は少なく、伝統的な様式の家屋が連なっているのは、古い町並みとして評価できる。
この地の古い伝統的な家屋様式は中2階建て平入りで袖壁を備えている。かっては虫籠窓だったかもしれないが、今はガラス窓になっている。一階では千本格子だったのだろうが、これもガラス窓やガラス戸になっていた。
でも、古くからの宿場町・商業町・物資の集散地だった名残は、家並みや町割りを通じて感じられ、自然発生的にできた少し湾曲した街道に沿う町並みは保存に値する町並みだと思う。
町並み指数 50
参考文献
  角川日本地名大辞典上下巻  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和57年
  京都府の地名  平凡社  日本歴史地名大系30  下中邦彦  1981年

大江町河守の町並み

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