永禄11年(1568)9月、織田信長は観音寺城を攻め落とし近江国を手に入れた。そして天正4年(1576)から戦略上の立地条件で、安土山に築城をはじめ、同7年(1579)に七重の天守閣をもつ安土城を完成させて居城とした。 築城と同時に城下町建設をはじめ、楽市・楽座を設け、町人の課役免除の他、商人の通行を義務づけたり、国中の馬の売買を同町で行うなど、城下町の発展を図った。それと同時に豊浦や常楽寺の湖岸一帯は湖上交通の要衝として繁栄した。 安土城時代の常楽寺は下豊浦村域とともに、同城下の中核地域であり、常楽寺はおもに町人町であったと想定されるが、当時は未だ江戸時代のように武家(家臣団)と町人(商人・職人)の住み分けが進んでおらず、城下町の中での混住であったようだ。 しかし、天正10年()に本能寺で信長が亡くなると、近江国は豊臣秀次の支配地となり、居城を近江八幡と定め、城の移転と同時に安土の城下町も商人とともに移ってしまい、安土は元の農村となってしまった。 常楽寺の大部分は寛永年間(1624〜43)より幕府領であったが、幕末には大和郡山藩柳沢氏領となっている。 城下町が八幡に移ってからは、常楽寺では農業のほかに、地の利を生かした漁業や回漕業が行われた。慶長6年(1601)54艘、延宝5年(1677)には48艘を所有している。そして江戸時代には常楽寺湊は年貢米の積出港として賑わいを見せ、漁業も盛んであった。 しかし常楽寺の沿岸部が天保年間(1830〜43)に開発され、八幡新田が生まれたことにより、常楽寺は沿岸部でなくなったが、常楽寺湊はそのまま残った。 明治になり漁業も江戸期の20〜30%に激減し、大正・昭和と細々と続けたれていたが、今では西の湖の淡水真珠養殖に従事する人のみになってしまった。 米の積出港として賑わった常楽寺湊も、明治22年東海道本線開通により、湖東の農産物は八幡・能登川の両停車場に集荷されるようになり、急速に寂れてしまった(安土駅が開業したのは大正3年)。 今、古い町並は旧常楽寺湊近くで八日市と安土を結ぶ道路に沿って展開する。古い伝統的な建物は殆どが中2階建ての切り妻造り平入りで、土蔵も道路に面して妻を見せて建っているのが一般的なようだ。 古い町並の条件の造り酒屋さんも呉服屋さんも健在で、今 安土町では町おこしに織田信長の安土城をメインに掲げていろんな施設を整備しておられた。駅前ではレンタサイクルを借りて安土城の遺跡を廻るグループが見られ、町おこしが着実に進んでいるようであった。 滋賀県の歴史散歩上 山川出版社 滋賀県高等学校歴史散歩研究会 1993 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 滋賀県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1991年 |