京都府の北西部で由良川の中流域に位置する。この地は近世初期までは領主・領地は複雑であったが、寛永11年(1634)九鬼隆季が2万石の領主として志摩国鳥羽から綾部に入り綾部藩を創り、そのまま10代隆備のとき明治維新を向え、江戸期を通じて城下町として繁栄した所である 綾部に入封した九鬼隆季は、下市場・堀の内付近(現川糸町)に居館を構えたが、慶安3年(1650)に全焼し、翌年南方の上野(現上野町)に移築した。上野は本宮山と藤山の鞍部にあたる台地で、綾部郷の大半を眺望することができるところであった。元禄15年(1703)の古絵図によると、居館は本宮山を背に北西方を大手として、南西に田ノ口門、北東に新宮門があり、これらの門内に屋敷町・仲ノ町・土手町・藪町・枕町・南町などの武家屋敷があり、町屋は北西山麓に本町・西町・上町・田町・新町・西新町・広小路などの城下町があった。同絵図では本町・西町は奥行き20間で他の町は15間で、道路は全て丁字路になって町の端に土塁を築くなど城下町の形を整えている。城下は大手門に通じる田町、それより京道へ続く本町、福知山街道へ続く西町を中心に発達していた。 元禄15年(1702)の城下の家数は238軒で、これが天保年間(1830〜44)に278軒に増加しているが、町組の規模は変化していない。 城下の有力商人は本町を中心に店を構えており、京屋(羽室姓)や山崎屋(大槻姓)一族が金融・酒造・油絞り・醤油などの権利をもって独占していた。 この地の産物は、木綿・生糸・茶などがあった。 近世以来この地は養蚕が盛んであったが、品質は余り良くなく特産地にはなってなかった。明治中期になって、波多野鶴吉(郡是製糸初代社長)の構想で技術者の養成に力をいれ、品質の向上を図って養蚕業を広め、養蚕農家を株主にして、郡是製糸を創業した。後に綾部製糸(今の神栄製糸)と共に纎維の町綾部を形づくるのである 今古い町並みは本町二町目・三町目辺りに点在する。旧街道がそのまま商店街になったため、商店として改造された家も多く、看板の奥に塗り込めの虫籠窓や格子が覗く。中には袖壁や煙だしもそのままある商家の建物もあり、僅かだがかっての城下町の町人町の面影が残る。 伝統的な商家の建物は、切り妻造り、中二階建ての平入り、漆喰塗り込め虫籠窓、格子で構成されていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 京都府の歴史散歩下 山川出版社 山本四郎 1995年 京都府の地名 平凡社 日本歴史地名大系30 下中邦彦 |
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本町の商家 |
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