徳川家康が江戸城に入ると三浦半島は直轄領となり、初代代官長谷川七左衛門長綱は西浦賀に陣屋を設けた。元禄5年(1692)に浦賀村が東・西に分村している。 東浦賀と西浦賀村の間には奥深く湾入りした湊があった。 まず、東浦賀村は「豆相海浜浦々図」によると東浦賀の所有船数は60艘。うち漁船44・押送船8・海士船2・五大力船6とある。天正年間(1573〜92)頃には15戸であったというが、次第に増加し、元禄16年(1703)の大津波で一時的に減少したが、浦賀奉行所の設置などにより、再び増加し、延享2年(1745)の村明細書によると、家数424・うち干鰯問屋28。天保初期(1830)には450戸になり、その殆どが商家で、うち30戸は干鰯問屋であった。 東浦賀の干鰯問屋は江戸初期、紀州漁師の三浦・房総進出による鰯漁の発展によって成立したものである。 享保5年(1720)の浦賀番所の設置にあたり、東浦賀の干鰯問屋の反対によって、番所は西浦賀に建てられたが、このため東浦賀の繁栄は西浦賀に奪われた。 西浦賀村は「豆相海浜浦々図」によると西浦賀の所有船は24艘で、うち漁船14・押送船3・五大力船7とある。 享保5年(1720)下田奉行所を廃止し、当地に浦賀番所が置かれた。同時に高札場・船屋・奉行役所・与力同心屋敷・蔵・廻船問屋会所等が設けられた。江戸に入津する諸国の廻船は全てこの番所で改められた。天保初期(1830)の家数578とある。嘉永6年(1853)には海防用台場として番所と湊の入口の中間に見魚崎台場が築かれている。 古い町並は西浦賀と東浦賀に見られる。江戸中期までは干鰯問屋を中心に東浦賀が繁栄したが、その後は浦賀番所が西浦賀に設けられたことによって西浦賀が大きく発展した。 このことは今の町並にも歴然と現れ、東浦賀では商家の建物は殆ど建て替わり、僅かに数棟の石蔵を残すのみである。それに引き換え西浦賀は数は少ないが、伝統的な商家の建物や石蔵も各所に点在している。これらの石蔵は干鰯問屋の石造り土蔵が残っているのだろう。 神奈川県の歴史散歩上 山川出版社 群馬県高等学校教科研究会 1998年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59 神奈川県の地名 平凡社 下中邦彦 1984年 |
西浦賀町の町並 |
西浦賀町の町並 |
西浦賀町の町並 |
西浦賀町の町並 |
西浦賀町の町並 |
西浦賀町の町並 |
浦賀の町並 |
東浦賀町の町並 |