山手町は山手居留地が明治32年の居留地撤廃により山手町と改称された地域である。 安政5年(1858)の日米修好通商条約により、神奈川開港が取り決められたが、翌安政6年、幕府は神奈川開港を嫌い、横浜開港に向けて工事に着手した。開港場と東海道を結ぶ横浜道も建設された。横浜新田・太田屋新田が埋め立てられ、外国人居留地も形成された。 米英仏をはじめ各国から領事館および商人居住地・住宅地として、関内居留地が埋立による低湿地のため、眺望の良い山手丘陵地の提供が要望されていた。そこで幕府は慶応2年(1866)横浜居留地改造及び競馬場墓地等約書を締結し、横浜村・中村・北方村・根岸村の村境丘陵地に開発された22万坪の土地を貸与した。 しかし、当分商人住宅建設を見合わせるという条件を付けていた。攘夷派による外国人殺傷事件が続発する中で、警備上の問題により、商人への山手開放を承認しなかったのである。文久2年(1862)には攘夷派による居留地襲撃・運上所焼き討ちの風説が流れ、居留地外国人は動揺・混乱を極めた。その後も攘夷派の外国人殺害の風説は絶えず、居留民保護のためイギリス艦隊12隻・フランス3隻・オランダ2隻・アメリカ1隻などの外国軍艦が入港していた。その後も軍艦を停泊させていたが、元治元年(1864)に英仏両軍に居留地警備権と駐兵権を与えて、今のフランス山にフランス軍が、今の港の見える丘公園付近にイギリス軍を駐屯させた。明治8年まで外国軍隊の駐留を許したが、撤退後も英国領事館・仏公使館・英海軍病院や住宅などに転用された。 大正12年の関東大震災の際、この地は壊滅的な打撃を受け、今見られる洋館の建物はその後に建築されたものである。 第2次大戦後、山手公園は米軍に接収されていたが、昭和27年返還された。昭和37年港が見える丘公園が開園した。同公園の関内側一帯は幕末以後フランス領事館の所在地であったが、昭和46年に横浜市が買い取りフランス山として公開された。 横浜を代表する観光名所「港が見える丘公園」から山手本通りには旧園田兼吉邸(現山手資料館)・山手234番館(昭和初期の外国人向けアパート)、その隣が「えの木てい」という洋館のリビングを喫茶店にした洋館。横浜山手聖公会の教会、大正15年建築のエリスマン邸、旧セント・ジョセフ・インターナショナル・スクール(現ベーリックホール)、カトリック横浜司教館別館、カトリック山手教会。そしてイタリア領事館があったところから名づけられたイタリア山庭園には旧内田定槌邸、旧カトリック山手教会司祭館などの洋館建ての建物が、山手本通りの緑多い丘に建っている。 神奈川県の歴史散歩上 山川出版社 群馬県高等学校教科研究会 1998年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59 神奈川県の地名 平凡社 下中邦彦 1984年 |
明治42年建築の旧園田兼吉邸 この地に移築されたもので現在は山手資料館 |
昭和6年建築の横浜山手聖公会 |
昭和2年建築 山手234番館 外国人向けの集合住宅 |
大正15年建築のエリスマン邸 山手127番地から移築されたもの |
昭和5年建築の旧セント・ジョセフ・インターナショナル・ スクール(現ベーリックホール) |
昭和2年建築のカトリック横浜司教館別館 |
昭和8年建築のカトリック山手教会 |
明治43年建築の旧内田定槌邸 東京都渋谷区南平台に建てられていたこの建物を山手 イタリア山庭園に移築したもの |
旧天主公教横浜教区(カトリック山手教会司祭館)(暮らしと 歴史の資料館として公開)。 大正末期 山手45番地からこの山手イタリア山庭園に移築 され、カトリック山手教会司祭館として、平成3年まで使用さ れていた。 |