山下町は安政6年(1859)横浜開港により設定された外国人居留地で、明治32年居留地廃止により、同地区内の30ヶ町を併せて成立したもの。 幕府は外国と約束した神奈川開港を嫌って横浜に開港場を開き、運上所の東南に外国人居留地を設定することにした。外国側は尚も神奈川開港を譲らなかったが、横浜来航者が増加したことで、万延元年(1860)横浜開港を認めたので、外国人居留地が設営された。 外国人居住人口は関内居留地と山手居留地を含めて欧米人は、万延元年(1860)30〜40人、文久2年(1862)220人、明治3年942人、明治9年1,521人、明治23年1,593人と暫増していく。国別では明治年間を通じて、イギリスが40%以上で、アメリカ15%、ドイツ10%、フランス8%でその他オランダ・スイス・イタリア・ポルトガル・ロシア・スペイン・デンマーク・オーストリア・スエ−デン・ベルギーがいた。 中国人数は幕末期は不明だが、外国人の30〜40%が中国人であったと推定されている。 明治4年に日清修好条約締結により中国人が急増し、明治5年963人、明治10年1,142人、明治20年2,573人、明治30年2,742人、明治40年3,644人で未登録者を含めると明治末年には5,000人を越えていた。 中国人の約半数は居留地の130〜160番付近に集団居住したため、この地は通称南京町(現中華街)と呼ばれた。 幕末期の居留地の建造物は和洋折衷の木造建築物が多かった。慶応2年(1866)の豚屋火事で居留地の1/3が延焼し、居留地拡張・整備に伴って、公館・商館・会堂・ホテルなど石造・レンガ造の大規模な建造物が多くなり、道路も馬車が通れるように拡張されて異国的様相が濃くなった。 特にバンドと称された海岸通りは車道と歩道が区別され、南側にグランドホテル・インターナショナルホテル・クラブホテル・ユナイテッドホテルなど高層の洋館が建ち並び、見物の人々で賑わった。明治32年居留地廃止により、日本人の商店が次第に多くなるが、町の様相は殆ど変わらなかった。 大正12年の関東大震災で焼け野原となり、その瓦礫で前面の海岸が埋め立てられ、山下公園が出来た。震災後は外国人は帰国したり、東京・神戸などに移った人も多くあった。そして第2次太平洋戦争の空襲で再び焦土と化し、僅かに残ったニューグランドホテルは占領軍に接収され、連合国軍総司令官マッカーサーの宿舎となった。 現在、山下町の海岸沿いは山下公園になっていて、銀杏並木の広い海岸通りを挟んで官公庁・大企業のビル・ホテルなどが林立している。 神奈川県の歴史散歩上 山川出版社 群馬県高等学校教科研究会 1998年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59 神奈川県の地名 平凡社 下中邦彦 1984年 |
山下公園通りの町並 |
山下公園通りの町並 |
山下公園通りの町並 |
雨の山下公園 |
山下公園に係留されている氷川丸 |