文化・文政期(1804〜29)の家数が87戸であった寒村の横浜村が、嘉永7年(1854)のペリー再来日の応接場所となり、横浜村駒形に応接所が建てられ、一寒村横浜村は一躍外交場として注目を集めた。 そこでペリー一行と4回の交渉を重ねて日米親和条約が締結された。 安政5年(1858)神奈川沖に停泊中のポーハタン号上で調印された日米修好通商条約により、神奈川開港が取り決められたが、幕府は東海道神奈川宿に外国人が入るのを嫌い、無理やり横浜を開港場として工事に着手した。幕府は9万6千両を投じて、神奈川奉行所・運上所・波止場を建設し、外国人居留地を設営した。居留地の出入口に関門が設けられたことから、居留地は以後関内と、その外側はか関外と呼ばれた。東西はそれぞれ大岡川と堀川で、南は掘割で陸地から区分され、諸外国及び日本の商人による経済活動の一大拠点として、また西欧文化の流入口として重要な役割を果たした。 掘割は埋められたが、馬車道・関内大通・日本大通・本町通・海岸通・入船通などが規則正しく交差する整然とした町並が今に受け継がれている。運上所跡の神奈川県庁をはじめ、横浜市役所・横浜地方裁判所・日本銀行横浜支店・神奈川県警察本部・横浜地方検察庁などの諸官庁、銀行、商社などが集中し、神奈川県と横浜市のビジネスセンターとして機能している地域である。 そんな中で横浜三塔と呼ばれ、入港する船の目印となった建物も残っている。一つは神奈川県庁(通称キング・小尾嘉郎設計・昭和3年建築)、二つ目は横浜開港記念会館(通称ジャック・福田重義設計・大正6年建築)、三つ目は横浜税関(通称クイーン・大蔵省営繕管財局設計・昭和9年建築)も健在であった。 他に昭和4年建築の旧横浜商工奨励館(現横浜情報文化センター)、 明治44年建築の旧新港埠頭保税倉庫2号倉庫(現赤レンガ倉庫)、 大正2年建築の旧新港埠頭保税倉庫1号倉庫(現赤レンガ倉庫)、 昭和6年建築の旧英国領事館(現横浜開港資料館 旧館)などが補修されたり、一部保存されたりして残っている。 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 神奈川県高等学校教科研究会 1998年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59 神奈川県の地名 平凡社 下中邦彦 1984年 |
昭和2年建築の旧日本綿花横浜支店 現財団法人横浜芸術文化振興財団 |
明治44年(左)と昭和2年(右)建築の合体した建物 三井物産横浜ビル |
昭和4年建築の旧横浜商工奨励館 現横浜情報文化センター |
昭和3年建築の神奈川県庁 本庁舎 |
昭和6年建築の旧英国領事館 現横浜開港資料館 旧館 |
昭和4年建築の横浜海洋ビル |
昭和7年建築の昭和ビル |
昭和9年建築の横浜税関 本関庁舎 |
明治44年建築の旧新港埠頭保税倉庫2号倉庫 現赤レンガ倉庫として観光地となっている |
大正2年建築の旧新港埠頭保税倉庫1号倉庫 現赤レンガ倉庫として観光地となっている |