山北町山北の今回訪ねた町並は丹沢山地南西端に位置し、南西を酒匂川が流れ、南方に浅間山がある。 江戸期は川村山北といい、寛永10年(1633)、元禄10年(1697)・幕末とも小田原藩領。川村山北の西端に川村関所が設けられていて、村の南東から西に川村御関所道が通る。 村高は「元禄郷帳」457石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに536石余。貞亨3年(1686)の村明細帳では、家数141軒、人数870人、反別は65町1反余りと山畑37町2反余り、うち田は12町6反余り、畑は52町4反余りとあり、畑作で生計を営んでいた。また、炭焼きも主要な農間稼ぎで、万延2年(1861)には炭買主が9人もいて、農間稼ぎに炭を仕入れて江戸に送っていた。正徳3年(1713)の家数155(足柄上郡誌)、天保初期(1830頃)の家数192(風土記稿)。 明治22年に東海道線(現御殿場線)が開通と共に山北駅も開設さた。静岡県境の急勾配を控えて山北に機関庫が設けられ、駅前商店街の形成、鉄道勤務者の増加などで駅周辺は賑わったが、昭和9年に丹那トンネル開通による東海道線の路線変更に伴って衰退に向かった。 今、旧川村御関所道に沿って看板建築の町並が連なる。駅前の西側の一部に限って看板建築が連なる町並が見られるので、北山町役場の関係ある所に電話して聞いてみるも、もう少し西なら戦時中に焼夷弾で焼かれたが、今看板建築のある辺りは昔からそうだったとの話。 モルタル系の看板建築の様子から見て、戦後の建築と思われるがハッキリしてことは判らない。関東大震災後の復興で看板建築が関東一円で建てられた流れの一端だろうか。 まあ、戦後の建築にしても50年〜70年経っているのだから、看板建築の町並として立派なものと思う。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59 神奈川の地名 平凡社 下中邦彦 1984年 |
山北の町並 |
山北の町並 |
山北の町並 |
山北の町並 |
山北の町並 |
山北の看板建築の町並 |
山北の看板建築の町並 |
山北の看板建築の町並 |
山北の看板建築の町並 |
山北の町並 |