近世の蕨宿は埼玉県の南東部、荒川(旧入間川)下流左岸の自然堤防とその後背地に位置する。 中山道蕨宿の取立ては慶長11年(1606)から同12年の御殿設置に始まる。同17年から元和年間(1615〜24)にかけて元蕨(現戸田市)からの移住者と以前からの住民とを合わせ、江戸時代の蕨宿が成立した。宿成立当初の家数は65戸とも125戸とも云われる。 江戸期を通じて幕府領で、足立郡戸田領に属した。村高は「田園簿」で1,749石余、「元禄郷帳」で1,401石余、「天保郷帳」では1,439石余で、以後変化はない。 宿成立当時の蕨宿の道は、その大部分が御殿が置かれた宮田を中心に自然堤防に成形されたもので、屈折の多い幅の狭い道だったので、天和3年(1683)幕府により普請が行われ、ほぼ現在の形となった。 宮田にあった御殿は江戸初期に廃止され本陣が設けられた。本陣は2軒であったが江戸中期以降、交通量の増加に伴い脇本陣が設けられた。化政期(1804〜30)の家数430でその多くは中山道沿いであった。天保14年(1843)の「宿村大概帳」によると、宿往還の長さは20町1間で町並みとなっていて、本陣2・脇本陣1・旅籠屋23で、問屋場は中町にあった。宿内の家数は430・人数2,223。慶応2年(1866)には家数488・人数2,619となり、なかでも織物に関係したと思われる女性の増加が目立っている。 旧蕨宿の町並を歩くと、所々に伝統的な様式の家屋が点在している。本陣や脇本陣のあった宿中央部には伝統的な家屋の連なりが無かったが、道に沿って土蔵を備えた商家の建物が残り、宿場町当時の面影が残っている。旧街道筋を京都方面に進み国道17号線を越えた所の錦町3丁目には、古い形式の家屋の連ながった町並みが見られ安堵した探訪だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 埼玉県の地名 埼玉県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1993年 埼玉県の歴史散歩 山川出版社 埼玉県高等学校社会科教育研究会 1999年 中山道歴史散歩 有峰書店新社 斎藤利夫 1997年 |
北町2丁目の町並 |
北町2丁目の町並 |
北町2丁目の町並 |
北町2丁目の町並 |
錦町3丁目の町並 |
錦町3丁目の町並 |
中央4丁目の町並 |
中央4丁目の歴史民俗資料館分館 |
中央4丁目の町並 |
中央4丁目の町並 |