佃島と言えば、海老・小ハゼなどを醤油で辛く煮る佃煮が有名である。 佃島は寛永年間(1624〜44)に摂津国(現大阪市西淀川区佃)佃村の漁師が、鉄砲州の東、隅田川河口の石川島南続きの干潟100間(約180m)四方の地を幕府から拝領し、埋め立てて佃島と命名して住み着いた所である。 天正年間(1573〜92)に徳川家康が京都へ上がったときに、ひょんなことから佃村の漁民に恩義を感じて、以後同村漁民はお膳の魚の納入や漁船による西国への使いなどを務め、その後漁民34名が江戸へ召しだされて、領地が与えられ、佃島の漁師町が形成された。 佃島の漁師は将軍献上の白魚漁(11月〜3月)を義務付けられていたが、隅田川上流の千住辺りから品川沖に至る広大な海上の漁業権を与えられていた。 有名な佃煮は、本来、島生活の不時のときの食料であったが、何時の頃からかこの地独特の風味として有名になり、江戸市中で売られるようになった。 佃島の北側に石川島があった。佃島が埋め立てられた時には、石川島との間は約100mほどの隔たりがあったが、周辺の浅瀬を埋め立てて次第に近づき、幕末頃には二つの島は陸続きのようになっていた。 石川島は人足寄場(軽犯罪者や浮浪者の立ち直り厚生施設)から石川島監獄署となり、その後東京石川島造船所となり、石川島播磨重工業に発展し、昭和37年には国内最大の造船所となった。しかしその後、造船不況の波を受け、工場は閉鎖され、隣接の共同石油、三井建設倉庫共々売却された。これらの跡地は再開発され大川端リバーシティ21と呼ばれる大マンション群となった。 今、佃の町を歩くと、佃一丁目当たりは昔の漁師町そのままの町割りのようで、船溜まりも残り斜めになった不規則な道や狭い路地が続き、無意識に歩いていると方向を誤る。戦災を免れた古い下町の風情と、何処にいても空を覆っているような高層マンションが隣り合わせの、なんともアンバランスな光景。白魚漁も海苔栽培も出来なくなった今でも、船たまり辺りでは船宿が軒を並べ昔の面影を色濃く残し、ハゼ釣りの釣り人が大勢竿を出していた。 数が少なくなったそうだが、出桁造りの民家も散見できる。東京駅から10分ほどで来られるこんな近距離に、このような木造2階建ての町屋が並ぶ風景があるのは不思議に思った。 東京都の歴史散歩上 山川出版社 東京都歴史教育研究会 1998年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和53 東京都の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2002年 |
佃一丁目の町並 |
佃一丁目の町並 |
佃一丁目の町並 |
佃一丁目の町並 |
佃一丁目の町並 |
佃一丁目の町並 |
佃一丁目の町並 |
佃二丁目の町並 |
佃二丁目の町並 |
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