築地は隅田川河口部西岸一帯をさし、、明暦3年(1657)の大火直後の万治元年(1658)、市中の瓦礫や残土を利用して木挽町地先の海浜などが埋め立てられて出来た造成地。 埋め立ての進行に伴い、明暦の大火で焼失していた浄土真宗本願寺派本願寺の江戸浅草別院の移転が行われ、浜御殿や武家地・町人地も造成された。 海や築地堀に面して河岸が設けられ、漁民や小商人の家屋も並んだ。各地から江戸へ年貢米や物資を輸送する船舶も出入りした。幕末には幕府陸海軍の海軍操練所が元治元年(1864)に設置された。 明治元年には築地居留地を開く旨の東京開市宣言が行われた。開市とは交易のために外国人の一時滞在を許すが永住は認めないという意味。 築地居留地は28,000坪で明治11年の居留地の外国人は約430人、外国商社8社で、当時の横浜居留地と比較すると、面積では二分の一、居留地外国人数では七分の一であった。 英国人が多い横浜居留地と異なり、アメリカ人・フランス人宣教師などが多く、中国人の職人等で商業・貿易の拠点というより宗教的な性格が強かった。 明治維新後、築地一帯には旧幕府軍設立の軍事施設を継承して、明治新政府の軍事施設が集中した。海軍兵学校・経理学校・軍医学校が集まった。 また日本橋にあった魚市場が、関東大震災を契機に築地に移転してきた。 今、町並は看板建築が多く見られる町並で、中には出桁造りの町屋もある。佃島や月島同様にここも戦災で全てが焼けてないようで、焼け残った所が多かったのだろう。築地本願寺の南側の築地6丁目と築地7丁目は訪ねたのであるが、家の建て込んでいる築地場外市場のある築地4丁目は訪ね損なっているので、次の機会に訪ねたい。 東京都の歴史散歩上 山川出版社 東京都歴史教育研究会 1998年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和53 東京都の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2002年 |
築地7丁目の町並 |
築地7丁目の町並 |
築地7丁目の町並 |
築地7丁目の町並 |
築地7丁目の町並 |
築地7丁目の町並 |
築地本願寺 |