銚子市の市街地は千葉県北東部にあり、本州最東端、利根川の河口右岸に位置する。 銚子とは、江戸期以来、海上郡の利根川河口部の一帯をいう広域通称名で、海上郡のうち、飯沼村・新生村・荒野村・今宮村などの町並景観を持った地域の総称であり、公的な行政単位ではなく、通称名であった。 飯沼観音は円福寺の別称で、同寺の門前町として銚子市街地の基礎が形成されたと思われる。 天正18年(1590)徳川家康の関東入国に伴い松平伊昌が飯沼領2,000石で当地に入った。元禄11年(1698)幕府領、宝永6年(1709)からは上野高崎藩領となり、享保2年(1717)幕府領を経て再び同藩領で、以後幕末まで変わらなかった。 今回訪ねたのは、その中でも飯沼村の地域である。飯沼村は「元禄郷帳」582石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに811石余。享保5年(1720)の家数1,492・人数6,849。文化6年(1809)の家数1,291・人数6,216で、高崎藩の陣屋が置かれ、郡奉行・代官などが駐在し治政にあたった。 今日の利根川の流路がほぼ確定したのは、寛永12年(1635)からである。これによって船運の便が開け、利根川沿いに河港都市が発達し、仙台をはじめとした東北各地の米穀の江戸廻送は、房総半島経由から、銚子経由の利根川水運となり銚子はいちだんと繁盛し、城米を扱う問屋商人が成長した。他に一般の商荷物を扱う廻船問屋は銚子では気仙問屋とよび、蝦夷松前の鮭・鰊・数の子、仙台・南部産の鰯〆粕・生鮪・鰹節・魚油・昆布そして米・雑穀・材木などを扱っていた。 銚子の産業としては、醤油醸造があげられる。ヒゲタ醤油の元祖である田中玄蕃は飯沼の豪農で、元和2年(1616)ころ醤油醸造を始めたようであるが、その他は紀州から湯浅醤油の伝統をもってやってきた浜口儀兵衛(ヤマサ醤油の始祖)・岩崎重次郎・柳仁平治らが有力であった。 醤油醸造は元禄期前後より発展し、宝暦3年(1753)には11人の醸造家によって醤油仲間が結成されている。 漁業は干鰯(ホシカ)生産が盛んに行われていて、元治元年(1864)の春は未曽有の鰯の豊漁であった。 銚子の江戸期は利根川の水運で江戸と結ばれて、江戸の外港と呼ばれた。しかし、明治期以降大型の蒸気船が発達し、また鉄道が敷設されたりで、河川運輸は次第に衰退していった。 今、かって繁栄していた旧飯沼村辺りを歩くと、漁師町当時の面影が僅かに残っているが、銚子港の廻船問屋などの面影が見当たらないようだった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 日本の地名 千葉県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1996年 |
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