銚子市長崎町は利根川河口の銚子市市街から南東に約5km程の所、半島先端の長崎鼻のある集落。 江戸期から昭和12年までは高神村に含まれていて、高神村は半島(岬)の南半分を占めていた。慶長17年(1612)に検地が行われ、当時の百姓は16名であったという。 寛永4年(1627)旗本松平領となり、村高は424石余。元禄13年(1700)頃には高795石余で幕府領。宝永6年(1709)上野高崎藩領となる。享保2年(1717)幕府領となるが再び高崎藩領となる。 銚子の漁業の発展は主に紀州の漁民によってもたらされたものである。紀州人が銚子にやってくるようになったのは16世紀末とされている。明暦2年(1656)に崎山次郎右衛門が来て、任せ網の漁法を伝え漁業は大いに発展した。次郎右衛門は万治元年(1658)から6年かかりで外川港を築造し、傾斜地に碁盤目状の町並を作り、「外川千軒大繁盛」といわれた。 その東側の長崎鼻の付け根の長崎町も外川集落と共に漁業で栄えた集落であった。 後に漁法は八手網が用いられ、鰯の漁獲が増え、未曽有の干鰯(ほしか)景気を生んだが、明治中期頃からは漁業の中心は外川・長崎から飯沼や飯貝根に移って行った。 高神村の家数・人数は宝暦2年(1752)627・5,288。文化6年(1809)320・1,489とある。安政5年(1858)の銚子領村々記録では家数309・人数1,671とある。 外川集落の傾斜地の碁盤目状の町並を訪ねたあと隣の長崎町を訪ねた。漁師町だった名残が色濃く残る小さな集落で、寄棟造りで平屋建て板張りの家屋が古くからの伝統な家屋のようだが、この集落は外川よりも風の通りが良いので。防風対策が頑丈に行われた集落であった。家の周りを自然石を積み上げて囲いを造り、風の被害から家屋を守っていた。中には自然石の代わりにコンクリートブロックを無造作に積み上げて防風石垣とされていた家があり、環境の厳しさがひしひしと伝わった。 訪ねた当日も天気は良いが強風にさらされ、写真を撮ろうとレンズを家屋に向けると、海からの海水飛沫がレンズに付く有様で、より一層厳しさが伝わった探訪だった。 一部外川集落と同じ文章を掲載しています。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 日本の地名 千葉県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1996年 |
長崎町の町並 |
長崎町の町並 |
長崎町の町並 |
長崎町の町並(石の代わりにコンクリートブロックが) |
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長崎町の町並 |
長崎町の町並 |
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長崎町の町並 |