今回訪ねた長南町長南辺りは江戸時代には矢貫村長南といい、中世には城下町として軍事・政治の中心で、近世には宿場的性格をもち、商業・経済の中心であった。房総往還中街道の道筋であり、大多喜・一宮に向かう中継地として往来する人々が多かった。 町並みは南に向かう大多喜往還に沿って発達し在郷町を形成していた。町並みには旅籠・米屋・紺屋など各種の商店が軒を連ね、毎月2と7の日には六斎市が開かれ、商業・経済の中心地として栄えていた。 文禄3年(1594)の上総国村高帳には家数270とあり、寛政5年(1793)の万控帳抜書によると人数1,464、田畑72町4反余り、農間余業は菅笠作りとある。この菅笠は名物で、長南笠とも埴生笠とも呼ばれた。 明治初年から明治22年までは長南宿と称していて、埴生群内の在郷町として物資の集散地であった。 今も江戸期・明治期の繁栄の町並みがそのまま大多喜往還沿いに残っている。土蔵造りの商店が連続する町並みとは言えないが、伝統的な様式の家屋が点在する町並みであった。 特徴と言えば、寄せ棟・切り妻の土蔵造り・兜造りの家屋(多分茅葺きと思う)まであり、建物の様式の統一性が無かった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 日本の地名 千葉県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1996年 |
長南の町並み |
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