東金市の町並み 
東金
地図


東金市東金の町並み
 市街地の東金地区は戦国期酒井氏の城下町で、江戸初期には徳川家康により東金御殿が設置され、東金街道が開かれて交通の要衝であった。
江戸期にはこの地の名称が東金町と辺田方村と記録によってまちまちだが、辺田方村が正式のようだ。
慶長19年(1614)徳川家康の鷹狩のため東金御殿が造営され、家康が2回、秀忠が7回来ているが、家光は来遊の計画があり、御殿の増改築が行われたが完成後計画が中止されてしまった。また東金街道(お成り街道・一夜街道)は元々は鷹狩のために急遽造られた街道と言われているが、江戸を中心とした五街道以外にも色々と造られた軍事色の強い街道の一つと思われる。
東金町は文安年間(1444〜49)に今回訪ねた辺りの新宿に14名のものが屋敷を構えたのが草分けと言われている。大永元年(1521)酒井定隆が東金に入城した際には新宿は市街を成し、天正18年(1590)東金落城後に岩崎・上宿が町家になったと伝える。
文禄3年(1594)の新宿の家数72、上宿・岩崎・谷を含めると320であった。
4・9の日に六斎市が行われ、別に7月12日・12月27日にも市が開かれていた。江戸中期以降商業が発達し、天明年間1781〜89には東金茂右衛門が醸造業で財をなし、天保年間(1830〜44)には大野伝兵衛が製茶業を興し、東金茶の名を広めた。東金町明細帳によると酒造家は上宿町3・岩崎町3・新宿町4であった。
宝暦10年(1760)の東金町明細帳によると家数427・人数2,567とある。寛政5年(1793)の上総国村高帳には東金町とあり家数446。天保8年(1837)の福島藩領郷村改帳では辺田方村とあり、家数462・人数2,233とある。
今回訪ねた旧新宿町辺りも明治16年の大火で焼失したが、その後は急速に復興し、九十九里地方における最大の商業都市への成長に道をたどった。特に明治末期以降には養蚕業の隆盛により、生糸の一大集散地となり、生繭商は町内に30軒を数えた。
明治16年の大火のためか、伝統的な様式の商家の建物があまり残っていなかった。
町並み指数 30
参考文献     
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和54年 
  日本の地名 千葉県  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1996年

東金の町並み

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