神田須田町や淡路町は日本橋から本郷に抜ける中山道と神田橋から上野広小路方面に通じる道が交差した交通の要衝であった。寛永(1624〜44)江戸図によると淡路一丁目に西念寺と西福寺があった。西福寺は慶長3年(1598)三河より移って来たが、寛永15年(1638)浅草に再度移転させられている。 それは寛永12年(1635)頃から幕府による江戸市中の新しい町造りが本格化し、まず江戸中心部の神田・日本橋辺りにあった寺院は、外堀外周に強制的に移転させられ、浅草寺・寛永寺を中心に浅草・下谷・谷中に移転させられたものである。 その跡地に移って来たのは、内藤伊賀守・内藤和泉守・松平対馬守・豊後府内藩松平主膳正・同藩上屋敷と変って明治を向え、その後華族大給近道の屋敷と変遷している。これは一地区の説明であるが、この例のようにこのあたり一帯の住民や寺院は、江戸初期の寛永12年(1635)頃から強制的に移動させられ、武家屋敷町に造りかえられた所で、江戸時代はおおむね武家地であって、明治に入って華族たちが入ってきた地域である。 もう少し記述すると、淡路町交差点あたりは、江戸時代、堀丹後守屋敷で、丹後殿前と呼ばれた。湯女を置いて客を招く湯女風呂街で、この界隈を徘徊する男達おとこ達の着ていた衣装を丹前風といった。今湯上りに着る丹前の由来だそうだ。 淡路町あたりはもと連雀町といい、連雀(れんじゃく)(行商人の背負う籠)をつくる職人が住んでいたが、明暦の大火後、火除け地を設けるために町民は武蔵野に移住させられた。又この近くに神田青果市場発祥の地がある。慶長年間(1596〜1615)に各地から蔬菜類が集まった所で、明暦の大火後には江戸市中の青物商が集められた所だ。 今、神田淡路町や須田町あたりを歩くと、戦災を免れた昭和初期の古い町並が残っている。 どういう訳か、超人気のあるそば屋さん・あんこう鍋を扱う料理屋さん・鳥鍋屋さん・ぜんざいをメインにしている食堂など下町の食のメッカと言うような風情で、木造2階建ての料理屋さんが連なっていた。 そば通に聞くと、この超人気のそば屋さんを知らないのは、そば通でないと云っていた。 東京都の歴史散歩 山川出版社 東京都歴史教育研究会 1998年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和53 東京都の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 2002年 |
神田淡路町2丁目の町並 |
神田淡路町1丁目の町並 |
神田淡路町1丁目の町並 |
神田淡路町1丁目の町並 |
神田須田町1丁目の町並 |
神田須田町1丁目の町並 |
神田須田町1丁目の町並 |
神田須田町1丁目の町並 |
神田須田町1丁目の町並 |
神田須田町1丁目の町並 |