佐倉市の町並み 
新町・裏新町・宮小路
地図


新町の町並
 江戸から13里と近い位置にあり、江戸城防衛のため歴代譜代大名を配置し続けた城下町。
天正18年(1590)徳川家康が関東に入国すると、鹿島城には久野宗能が配置された。その後小笠原吉次が入り、慶長15年(1610)には土井利勝が鹿島城に入りった。その後領主はしばしば替わるが、江戸城防衛を目的にしたので歴代譜代大名が領主になっていたが、延享3年(1746)堀田正亮が入部して以後は明治に至るまで堀田氏が領主を勤めた。
鹿島城の再築工事と城下町の整備が行われたのは、土井利勝が入封してからで、鹿島台と称する東西にのびた舌状台地で武家屋敷や町人町の町割りを行い、台地一帯を佐倉と称し、造成された城下町を佐倉新町と呼んだ。
台地上に町割りされた佐倉新町には成田道が通り、この街道に沿って町家が並んでいた。
延宝6年〜貞享3年(1678〜86)の佐倉絵図によると城下町の侍屋敷数208・町人数3,651。寛延3年(1750)当時の町中人別は2,968人(うち禅門3・山伏2・医師11など)で、他に寺社人別36人・御朱印地人別125であった。
堀田氏時代の安政年間(1854〜60)の佐倉家中調では家数1,238のうち堀田家家臣921・町家317、人数6,400程であった。
城下での商工業は一般的に不振であった。その最もたる要因は当地が江戸に近いという条件で、商工業者の多くが江戸の資本家に吸収され、藩内独自に国産品を作り出す事ができなかった。住民は江戸で物を買うのみで、江戸に製品を売ることが少なかった。また城下での商いでも、顧客の中心は侍であったのであまり発展が見られなかった。
その中で唯一の特産品は炭で佐倉炭として江戸の市場に出荷されていた。炭が佐倉藩の専売品となったのは、文政年間(1818〜30)頃で、千葉町の炭問屋に委託されて江戸で売りさばかれていた。他に特産品を持たないこの地方の農家にとっては、農閑期における生活の糧であったと思われる。
城下町時代の町人町の中心地だった辺りを散策するも、これといった大きな商家の建物が見当たらない。明治中期以後関東で多く建てられた店蔵の建物も極僅かである。宮小路に行ってみると、この地に在った武家屋敷と移築したものなど3棟の武家屋敷が公開されていた。300石取り、150石取り、90石取りと身分は異なり、建物も前栽もそれ相応のものであるのが理解でき興味深い。 
町並み指数 30
参考文献     
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和54年 
  日本の地名 千葉県  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1996年
  関東小さな町小さな旅  山と渓谷社  山と渓谷社大阪支局  2001年

宮小路の町並

宮小路の町並

新町の町並

新町の町並

新町の町並

新町の町並
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