栄町安食は千葉県北部、利根川沿いの低湿地で、印旛沼と利根川を結ぶ長門川の東部に位置する。安食は行政上の名称でなく、通称名であり、栄町は全町番地で表示されている。 江戸はじめは旗本本多氏領、のち幕府領。元禄14年(1701)から佐倉藩領、享保8年(1723)から淀藩領。村高は「元禄郷帳」では1,545石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,671石余の大村であった。 天明6年(1786)の差出帳によると家数260・人数1,301、馬84、郷蔵屋敷、津出場、および舟渡場3ヶ所があり、高瀬舟9艘があった。安食河岸が設けられていた。 天保13年(1842)の農間諸商人書上帳には質屋・旅籠屋・菓子屋・居酒屋・畳屋・鍛冶屋など66軒があり、商いは穀物・醤油・油・薬種・荒物・瀬戸物・塩物・豆腐等などを商っていた。 安食河岸は利根川に注ぐ長門川右岸に置かれた河岸で、初見は元禄3年(1690)の幕府廻米津出浦々河岸之道法運賃書付にみえる。船渡場は上川岸・下川岸・水神川岸の三ヶ所とあり、公儀御用など銚子道の通行では人馬も含め渡船を勤め、御用材木の積出も行っていた。 また、高瀬舟9艘では年貢米や売買荷を積み、川稼ぎも行われ賑わっていた。 また、安食河岸は北浦・霞ヶ浦からの鮮魚を江戸(行徳)に向けて陸送する要地にあたり鮮魚の輸送量が多かった。 明治期になり、利根川の通運がますます盛んとなり、大型の蒸気船も就航し、安食は寄航場として栄えた。しかし、明治34年現在のJR成田線の前身の成田鉄道が開業し、利根川通運は衰退の一途を辿った。 今、古い町並は西からの国道356号線が大鷲神社に突き当たり、北に直角に折れる辺りに展開している。寄棟の塗籠造りの重厚な商家建築が連なる。如何にも重そうな屋根を支える家屋群には驚かされる。この寄棟造りの重厚な建物は房総半島の北部辺りに特に多いように思う。 この地で富を得た豪商の建物だったのだろうが、今では商売もされず、中には無住の家も見られ、近い将来この町並が無くなるのは……と思うと心痛む町並探訪だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59年 日本の地名 千葉県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1996年 |
安食の町並 |
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