房総半島の東南部に位置する旧大多喜城下は江戸期まで、交通の要衝で軍事・政治の中心であった。 徳川家康の関東入部に伴い、小田喜(大多喜)には天正18年(1590)本多忠勝が入り、城を改築して城下町を建設した。(最近まで中世の小田喜城の南1kmのところに近世の大多喜城が築城されたと考えられていたが、中世の小田喜城と近世の大多喜城は同じところと判明した)。 その後大多喜藩主の居城となり、安部氏・青山氏の入封・転封や無主・廃城になった時期もあるが、元禄16年(1703)松平(大河内)正久が入封し、9代続いて明治を迎えた。 城下町は本多忠勝が入封後に10万石にふさわしい城郭と城下町の建設を目指した。城の南部と東部に武家屋敷を、その外側に町人町を配し、夷隅川の川沿いに配置した寺社で防備した。 大多喜往還に沿って北から紺屋町・田町・猿稲町・久保町・桜台町・新町・柳原町の城下町7町(根古屋7町)を置いた。紺屋町・田町・猿稲町は職人町、久保町・桜台町・新町・柳原町は商人町で、桜台町と新町には酒造・醤油業が集中し旅籠も多く花町としても賑わった。 本多忠勝は商業発展のため、久保町で六斎市を開かせて発展の基を固めており、この頃までに城下町の原型が確立していたようだ。 家数については享保期(1716〜36)には柳原町を除く6ヶ町で350(大多喜城下絵図)。寛政5年(1793)の上総国村高帳では7ヶ町の家数442。明治5年の城下7ヶ町の家数は461とある。一方城下侍屋敷は慶応4年(1868)には222家であった。 町並みを訪ね最初に見えたのは大多喜城。城が残っていたのかと一瞬思ったが、昭和50年に復元されたもので、県立中央博物館であった。 訪ねた町並みは旧大多喜街道沿いの猿稲・久保・桜台・新丁の大多喜町の中心部。中でも久保には渡辺家住宅(重要文化財)をはじめとして、大手門の材料を基に明治5年に移築された伊勢幸酒店・土蔵造りの釜屋・商い資料館などの土蔵造り家屋が残り、新丁には造り酒屋(豊乃鶴酒造、登録文化財)さんや旅籠の名残の大家旅館(登録文化財)があった。 この町は町並み保存に努力されているようで、旧大多喜街道沿いの家々は伝統的な様式の板壁仕様になっていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 日本の地名 千葉県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1996年 |
猿稲の町並み |
久保の渡辺家(国の重要文化財) |
久保の町並み |
久保の民家(伊勢幸酒店) |
久保の町並み |
久保の町並み(手前は商い資料館) |
桜台の町並み |
桜台の町並み |
新丁の造り酒屋(登録文化財) |
新丁の造り酒屋(登録文化財) |
新丁の大屋旅館(登録文化財) |