埼玉県西端部、荒川水系赤平川左岸に位置し、秩父市街から北西に約8kmの所。 江戸はじめは小鹿野一村で、幕府領だったが、元禄郷帳作成時までに、上・下の2村に分村したという。今回訪ねたのは上小鹿野村だったところ。 天明4年(1784)下総関宿藩領となり、天明7年(1787)再び幕府領。文政8年(1825)上総貝淵藩領となる。只、支配関係は複雑で、幕府領の間、延宝2年(1674)〜文化10年(1813)(天明4年〜7年の下総関宿藩領時を除いても)幕府領の代官は30人も代わっている。 上鹿野村の中ほどを、西に向かう往還(現国道299号線)が通る。その往還沿いに120軒ばかりの家並みが軒を並べ、上・中・下の三町に分かれていた。この町場は上鹿野町とも唱えられ、5・10の六斎市が立ち、絹・横麻などの諸商品の交易が行われていた。 天明8年(1788)の家数268・人数1,132とあり、「風土記稿」によると家数268、耕地は畑が多く田は少ない。農間には男は薪採り・女は養蚕や絹織を行い、産物には絹・煙草・大豆などがあった。「遊歴雑記」には「小鹿野の町は東西の往還にして道幅広く、家居両側に建つなりその長さ6・7町もあらんか、諸商人旅店軒をならべて、秩父郡の内にては第一を大宮町とし、小鹿野・吉田の弐ヶ処これに継ぐべし……」とありその繁栄ぶりを記している。 今、小鹿野の町をあるくと、西秩父地方の政治・経済・文化の中心地として発展している。今では秩父より西に向かう主要道はバイパスとして旧道の北側に国道299号線になっている。古い町並みは旧街道沿いに色濃く残っている。特に町役場から西側には、電柱とテレビのアンテナを取り去ると江戸期・明治期と思われる町並みが展開している。平入り切り妻造りでトタン葺の家屋、中2階・2階建ての家屋、妻入りになった土蔵造りの家屋などなど。訪ねた当時は「路地サミット」なる企画が開催されると町をあげて宣伝されていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 日本の地名 埼玉県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1993年 |
小鹿野の町並 |
小鹿野の町並 |
小鹿野の町並 |
小鹿野の町並 |
小鹿野の町並 |
小鹿野の町並 |
小鹿野の町並 |
小鹿野の路地風景 |
小鹿野の路地風景 |
小鹿野の町並 |