板橋村には東海道が東西に通り、その両側に町屋が並び、東南に熱海道が通っていた。江戸を出て二夜目を小田原宿で過ごした旅人が、さあ、箱根を越えるぞと勢いよく歩いた所だ。元は大窪といい、寛文12年(1672)の村明細帳によると、小田原藩に大久保氏の入部を機に村名をはばかって、小田原用水に架けられた板橋にちなんで「板橋村」に改めたという。 江戸時代を通じて小田原藩領で、小田原宿外れから東海道沿いの様子は「百姓しょざい」とあり農村であったようだ。産業は戦国期以来の石切と紺屋があった。 石切は石工棟梁善左衛門以下の石工が小田原石を使って北条氏の石御用を勤め、徳川家康もその技量を認めて二人扶持を給し、江戸ー小田原間の石切伝馬手形が与えられている。 紺屋は「京紺屋津田藤兵衛」といい、北条氏より小田原紺屋大工・紺屋役を命じられると共に伊豆・相模の藍瓶役徴収を認められ、近世には小田原藩の紺屋大工・紺屋役を勤めた。 寛永初期の家数120、寛永12年()の家数101、天保初期の家数136、明治9年の家数188・人数961とある。 小田原城下に接する地として寺が多く、村明細帳には寺13・堂1・社2が記されていて、近世初期にはある種の門前町が形成されていたようだ。 今町並を訪ねると、伝統的な家屋は極一部しか残っておらなかったが、出桁造りの家屋は何棟か残っていた。 神奈川県の歴史散歩上 山川出版社 群馬県高等学校教科研究会 1998年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59 神奈川県の地名 平凡社 下中邦彦 1984年 |
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