野田市野田は千葉県北西端、利根川と江戸川に挟まれた所に位置する。 野田町の江戸はじめは山崎藩領、寛永年間(1624〜44)幕府領、元禄10年(1697)からは旗本松平氏領。町高は「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに541石余。 江戸時代には日光東往還が通り、野田の南に山崎宿、北には中里宿が置かれていて、野田は近郷の流通の中心地として市が立ち、早くから町場が形成されていた。町場はのちに上町・中町・下町に分かれ、寛文年間(1661〜73)には六斎市も開かれていた。 寛永年間(1624〜44)の利根川東流大改修工事により、利根川水系に木野崎河岸、江戸川水系に今上河岸ができた。江戸初期には利根川筋の河岸の力が強かったが、中期以降は醤油運搬を一手に取り扱った江戸川筋の野田下河岸・野田上河岸の力が強くなった。そして明治10年以降は、蒸気船の発着場となり、野田の表玄関として栄えた。 近世には醸造業が盛んで、特に醤油は江戸時代後半から銚子とならんで、江戸市場への一大供給地となっている。 当地における醤油生産の始まりについては、戦国期に飯田家によって始められたと伝えるが、不明な点がおおい。寛文元年(1661)から上花輪村の高梨兵左衛門が醤油醸造を始め、寛文2年(1662)からは茂木七左衛門が味噌醸造を始めた。 享保年間(1716〜36)には江戸で消費される醤油の4分の3は関西で生産される下り醤油であったため、地元で生産される醤油が求められ、明和元年(1764)に柏屋(茂木七郎右衛門)、同3年には茂木本家(茂木七左衛門)が醸造を開始、これをきっかけとして当地では安永年間(1772〜81)頃までに多くの醤油醸造元が誕生した。 野田は今も醤油醸造の町として、キッコーマン醤油をはじめ多くの醤油メーカーが醤油を造っている。 東武電鉄野田駅前は商店も商店街も無いキッコーマン醤油の敷地内のような感じである。醤油も今では近代工場で自動的に造られているので、この町並に醤油醸造の古い町並を期待するのは無理であるが、旧日光東往還筋には伝統的な様式の建物が点在し、それなりの古い町並を形成していた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59年 日本の地名 千葉県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1996年 千葉県の歴史散歩 山川出版社 千葉県高等学校教育研究会 1998年 |
野田の町並 |
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