流山市流山は千葉県の北西部、都心から北東に約25から30kmの江戸川中流左岸に位置する。 江戸時代を通じて幕府領。流山村の村高は「元禄郷帳」499石余、宝永4年(1707)の検地帳では619石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに624石余。 流山村には松戸ー野田を繋ぐ往還が縦断していて、人家の多くは同往還沿いに集中して町場を形成し、宿場の機能を果たしていた。また、地内には河岸場(流山河岸)と渡船場(丹後渡)が、北の加村には加村河岸が置かれて、水運と陸送の中継点として発展した。特に銚子鮮魚を江戸に輸送する中継河岸として賑わった。 利根川・江戸川水運は、利根川の右岸、木下(現印西市)、布施・船戸(現印西市)でいったん陸揚げした荷物を、江戸川左岸の流山河岸・加村河岸・松戸河岸などまで陸送し、再び積み替えて船で江戸(東京)を目指していた。 江戸初期に新田開発された水田地帯での良質の米と、船運の便と水質の良さから流山村やその近郊では酒造が盛んとなった。天保年間(1830〜44)には酒造人は9人・酒造米石は7,650石にもなり、江戸に向けて出荷された。 流山の賑わいについて、友田次寛は天保12年(1841)の「小金紀行」に「此所は利根川に添いて、旅客の宿りすべき家、軒を並べ、物売る家の立ちつづきて、いと賑はひたるさま、………」と記している。文中の利根川とは江戸川のこと。 流山河岸についてもう少し記述すると、幕府領を中心とした近在村々の年貢米や流山特産の味醂・醤油の津出しに利用された。加えて利根川水運を利用して江戸に運ばれる奥羽や北関東のからの米・海産物・薪炭・味噌・煙草・紙などの諸荷物は、利根川右岸の布施河岸(現柏市)や木下河岸(現印西市)などでいったん陸揚げされた。そして荷は陸路で流山河岸や加村河岸に運ばれ、再び船積みされて江戸川を下って江戸に運ばれていた。 今、古い重厚な家屋が見られるのは、野田ー松戸を繋いでいた往還に沿ったところで、流山1丁目〜流山2丁目にかけてである。関東地方特有の重厚な屋根を備えた土蔵造りの商家家屋が点在し、また、一部では連なっている。その多くは切妻造り平入の建物であるが、なかには寄棟の建物も見られた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 日本の地名 千葉県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1996年 |
流山2丁目の民家 |
、k 流山1丁目の町並 |
流山1丁目の民家 |
流山1丁目の町並 |
流山1丁目の民家 |
流山1丁目の民家 |
流山1丁目の町並 |
流山1丁目の町並 |