三浦市三崎は三浦半島先端部に位置し、相模湾に面する。 寛永10年(1633)・元禄10年(1697)はともに幕府領、幕末は浦賀奉行所預かり。村高は「元禄郷帳」37石余、「天保郷帳」42石余、「旧高旧領」には三崎村と見え42石余。化政期(1803〜40)の家数540軒。「新編相模」によれば天保初期(1830頃)の家数597軒、漁船190・極印船19、問屋15軒、漁獲物は鰹・鮑・海老などが上等で海藻類も豊富とある。 当地三崎は天正18年(1590)徳川家康の関東入国以来徳川水軍の拠点の一つであった。向井・間宮・千賀・小浜の四氏を船手奉行として常駐させていたが、向井忠勝のみを残して三氏を江戸に引揚げ、寛永元年(1624)三崎と走水(現横須賀市)に海関を設け湾出入りの船を調べた。元禄9年(1696)三崎奉行は廃され、伊豆下田に移された。享保5年(1720)浦賀に奉行所が移されると、三崎もその配下に入った。 享保年間(1716〜36)の「豆相海浜浦々図」によると三崎湊は廻船700艘ほどが停泊でき、当湊所有船数280艘のうち漁船137・小買船58・丸木船57・押送船29とある。 江戸期の三崎港は江戸への、また江戸からの廻船の寄港地となり、城ヶ島が自然の防波堤の役目を果たし風待ち港として賑わい、廻船の船宿も最盛期には24軒に達した。宝暦年間(1751〜64)の三崎町は、東の軍事および廻船の港町と西の漁村に分かれていたという。嘉永5年(1852)の三崎町船宿引請場所書上帳によると、船宿として遠州屋以下12軒が数えられている。 漁業については、船手奉行が江戸に引き上げたときに残した水主たちが漁師となり、江戸へ魚を送り始めたという。新しい漁法は多く伊勢・紀州の漁師から伝えられたといい、大消費地の江戸と結びついて漁業が発展した。 三崎を訪ねたときには大勢の人が出て、「三崎まぐろ鉄火巻日本一寿司つくり大会」というイベントの始まる直前で、560mの長さの巻寿司つくりに挑戦という直前で、人人人で町並の写真は思うように撮れなかった。 訪ねたのは三崎港の東の地域で、昔は廻船問屋が建ち並んでいた所。廻船の寄港で賑わって居た当時の面影のある廻船問屋の家屋や土蔵が数多く見られる。銅板を貼りつけた看板建築、虫籠窓を残した商家建物、妻入りの入母屋造りの商家、石造りの土蔵、板張り寄棟の家屋などなどバラエティ−に富んだ家屋形態がみられる港町だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59 神奈川の地名 平凡社 下中邦彦 1984年 |
三崎3丁目の町並 |
三崎3丁目の町並 |
三崎3丁目の町並 |
三崎3丁目の町並 |
三崎2丁目と3丁目の境の町並 |
三崎3丁目の町並 |
三崎2丁目の町並 |
三崎2丁目の町並 |
三崎3丁目の民家 |
三崎2丁目の三崎昭和館 |
三崎3丁目の町並 |
三崎5丁目の町並 |