真鶴町真鶴の町並
真鶴
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真鶴の町並

 真鶴町真鶴は神奈川県の南西部、箱根山地の南東に続く相模湾に突き出た半島に位置する。
江戸期、真鶴村は小田原藩領。村高は寛永年間(1624〜44)小田原領西筋村々高ノ帳111石余、家数169。「元禄郷帳」161石余、「天保郷帳」283石余、「旧高旧領」283石余。寛文12年(1635)の家数207、天保初期(1830年頃)の家数279
漁業はすでに永禄7年(1564)の北条家朱印状に見られる。
「新編相模」によると家数275軒、熱海道(土肥道)が村の西を通る。農間余業は漁業・石切・水夫・運搬人夫など。漁船は47艘、湊は東西115間・南北205間。江戸へ運送する船は石・薪炭・樒・湯河原温泉湯を運ぶ小廻船8艘、漁魚を運ぶ魚艇5艘。産物は敷石・礎石・石畳に用いる石など。
承応3年(1654)には江戸八丁堀の石屋に、明暦2年(1656)には江戸城本丸普請に、寛文6年(1666)には公儀御用石垣に、天和元年(1681)にも江戸城紅葉山仏殿石垣にというように、真鶴村は真鶴石(小松石)の産地として多くの石を江戸に向けて積み出していた。
大正11年に国府津から熱海線が真鶴まで開通、熱海・湯河原に向かう温泉客で賑わったが、大正12年の関東大震災では壊滅的な打撃を受け、役場もバラックで事務を続ける状態だった。昭和9年丹那トンネルの開通とともに東海道本線となり、真鶴駅は漁獲物や石材の輸送に大きな役割を果たすこととなった。
今、町並を歩くと、殆ど古い町並らしいものは残っておらない。かって漁業集落であったことは理解できるが今の生業はなんなのか。町の統計によると矢張り漁業と石材と観光とある。
山に貼りついた住宅地で、全て傾斜地で平地は無い町である。サラリーマン世帯が圧倒的に多いのだろう。急な階段を降りてくる老婦人を見かけたので、大変ですねと声を掛けると、仕方ないねとの答えが返ってきた。降りることはできても、帰りには登らないと!! どうして家に帰るのだろうと思った。
町並み指数  30
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和59
   神奈川の地名  平凡社  下中邦彦  1984年


真鶴の町並

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