越谷市の町並 
越ヶ谷・中町・越ヶ谷本町
地図


中町の町並
 越ヶ谷は江戸時代に日光街道の宿場町として栄え、六斎市も開かれ、近郷商圏の中心地であった。
慶長年間(1596〜1615)の奥州道(のちの日光道中)の整備により新たに宿村としてつくられた。ほぼ同時期に元荒川の対岸(日光道中の越ヶ谷宿の北側)に越ヶ谷宿の加宿として大沢町が取立てられ、街道に沿って町並みが形成された。その後、両町併せて越ヶ谷宿と称された。
江戸後期の宿村大概帳によると、越ヶ谷宿の宿内町並17町34間、家数1,005・人数4,603。本陣1・脇本陣4(何れも大沢町に所在)。旅籠屋52(大11・中28・小13)とある。人馬継問屋場は越ヶ谷中町と大沢町に各1、問屋は4人で越ヶ谷4町(越ヶ谷3町・大沢1町)の名主が交替で勤めた。
越ヶ谷宿のうち、越ヶ谷町として本町・中町・新町があり、往還の長さ9町20間、家数542・人数2,507。大沢町として上宿・中宿・下宿と分けられ、往還の長さは7町36間、享和2年(1802)の家数420・人数1,732とある。
越ヶ谷町には古くから2・7の日の六斎市が立ち、近郊商圏の中心であった。旅籠屋や茶屋など休泊施設の殆どが大沢町に集中していた。特に大沢町の飯盛旅籠は文政年間(1818〜30)には22軒を数えた。これは前述の大沢町の享和2年(1802)の人数にも表れ、1,732人の内、男791・女941と150人も女性が多いのは、接待の女性を数多く抱えた飯盛旅籠が軒を並べていたからと思われる。
今も旧日光街道に沿って古い町並みが展開している。特に越ヶ谷と中町には伝統的な様式の商家の建物が連なる。江戸末期の建物と思われるものも散見できるが、殆どは明治に入ってからのものだろう。店蔵といわれる形式の建物が多く、広い間口の重厚な建物が連なっていた。ただ、元荒川を越えた北側の大沢町は宿場町当時は賑わった場所だったが、今では当時の面影が全く残っていなかった。
町並み指数 40
参考文献     
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和55年
  埼玉県の地名  埼玉県  平凡社 (有)平凡社地方資料センター  1993年

越ヶ谷の町並

越ヶ谷の町並

中町の町並

中町の町並

中町の町並

中町の町並

中町の町並

越ヶ谷本町の町並
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