木更津市の町並 
中央2丁目・中央3丁目
地図


中央2丁目の町並

 木更津市の市街地は房総半島のほぼ中央部の西海岸、東京湾に面した所に位置する。
文禄3年(1594)の上総国村高帳に木更津村の村名がみえ、高1031石余。寛永10年(1633)旗本堀・保科・内藤三氏の相給。元禄6年(1693)には柳澤吉保・飯野藩・旗本内藤氏の相給。元禄郷帳では高1124石余。寛保2年(1742)は飯野藩領と旗本小笠原・榊原・森・飯田の4家領。安永9年(1780)には飯野藩領、三卿の清水領と旗本榊原・森・飯田の3家領。
寛政5年(1793)の上総国村高帳では高1041石余・家数940、幕府・清水家・館山藩の相給。天保郷帳では高1199石余。以降も幕府・大名・旗本の相給が頻繁に変更になり、嘉永3年(1850)から防海警備のため会津藩領・筑後柳川藩領・陸奥二本松領・上野前橋藩領などを経て明治に至る。
慶長19年(1614)の大坂の陣に際し、徳川氏の幕府水軍に寄与した水主の子孫たちが、幕府領年貢米の運搬に特権を得たのが木更津船で、以降木更津は港町としても発展した。「木更津千軒」と云われるほどに、商家・土蔵・旅籠・茶屋・寺院が建ち並び、木更津船によって直接に江戸の風俗・文化が入り小江戸の観を呈した。
木更津船は主に小櫃川の上・中流域から川舟で運ばれてきた米俵や木材・薪などを、木更津船に積み替えて江戸などに運ばれ、江戸からは様々な物資が木更津船で運び込まれた。
木更津村には海岸線の近くを南北に房総往還が通り、村内で3本に分かれ、東から寺町通り・旅籠屋町の通り・海岸通りがあり、海岸通のすぐ西側には木更津船や漁船の発着場があった。
幕末になり、木更津船の特権が薄くなってきたが、木更津の港の発展は続いた。明治になると帆船から汽船の時代となり、遠浅のため港は一時衰微したが、それでも明治23年の記録によると、50石以上の日本形船舶が32艘あり、この数は相模浦賀を除いて相模・上総・安房のなかで最も多かった。
木更津村で3本に分かれた旧房総往還が通っていた中央2丁目辺りを訪ねました。古い町並は殆ど見られませんでしたが、伝統的な様式の家屋は僅かに残っていて、土蔵造りの商家建物も見られました。
 町並み指数 20
参考文献     
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和59年
  日本の地名 千葉県  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1996年

中央2丁目の町並

中央2丁目の町並

中央2丁目の町並

中央2丁目の町並

中央2丁目の町並

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