川口市鳩ヶ谷本町は埼玉県南東部、大宮台地の南東部の突出した部分で、鳩ヶ谷台地と呼ばれている所に位置する。 鳩ヶ谷町は江戸はじめは鳩ヶ谷藩領、元和3年(1617)からは幕府領。村高は「田園簿」で430石余、「元禄郷帳」で405石余。元禄年間(1688〜1704)位までは鳩ヶ谷町と呼ばれていたが、その後は鳩ヶ谷宿となる。 鳩ヶ谷宿は江戸期を通じて幕府領。村高は「天保郷帳」406石余で幕末まで変わらず、寛政11年(1799)の家数186・人数741、化政期(1804〜30)の家数180軒。明治9年の家数305・人数1,376。 毎月三・八の日に六斎市が立ち、近在から雑穀・土物・青物・飼葉・茶・藁灰等を持ち寄り売買が盛んであった。なかでも、江戸から古着商や古物商が多く来て市に加わったので、一名ボロ市の名もあった。江戸末期の最盛期には市に出た商人は400〜500人に達し、終日にぎわったという。 日光御成街道の宿場町で、江戸から2番目の宿場とされていた(川口宿と岩淵宿は合わせて一宿に数えるため)。宿の成立は寛永13年(1636)の日光東照宮造営後という。天保14年(1843)の宿村大概帳によると本陣1・脇本陣1、問屋場は一ヶ所で本陣・脇本陣兼帯、旅籠屋16(中7・小9)があった。 今回歩いたのは、旧日光御成街道に沿った町並である。標識や説明板等で旧日光御成街道と言うことは判り、旧街道に沿った両側には少し名残を留めているが、古い町並みは殆ど残っていなかった。鉄道網から外れた町であるので、もう少し古い町並や古い民家が残っているかと期待して訪ねたのだったが。 東京の中心迄約15kmのベットタウンとして最適な位置、鉄道が無くてもバス便が発達したので開発が進んだのだろう。でも今では埼玉高速鉄道が通り、何の不自由なく東京の中心に行けるようになっていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 埼玉県の地名 埼玉県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1993年 |
鳩ヶ谷本町一丁目の町並 |
鳩ヶ谷本町一丁目の町並 |
桜田六丁目の町並 |
鳩ヶ谷本町一丁目の町並 |
鳩ヶ谷本町一丁目の町並 |
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