川越城下町は小江戸と称され、大いに賑わった城下町で商業の中心地でもあった。 幕府は江戸城を固めるべく、北方の守城として川越城を重視し、腹心や親族の重臣を配置した。川越城3代目の松平信綱は寛永15年(1638)の城下の大火をきっかけに、川越城の大増築と城下を一町位の長方形を基準とした碁盤目状の町割り整備を行い、現在の川越の骨組みが出来上がった。 城の西大手と南大手に武家屋敷、上五ヶ町・下五ヶ町の商人町や鍛治町・鴨町などの職人町を造った。天明4年(1784)には十組問屋が公認され商人仲間が形成されているので、川越城下の活発な商業活動があったことが伺われる。江戸との間に新河岸川の水上交通が開かれたのもこの頃である。 元禄11年(1698)の川越市街屋敷社寺記には、川越十ヶ町の家数318・店数279・人数2,824とある。川越の市については「元亀・天正の頃よりありて、市を九さいに定めたるは、正保・慶安の頃と云う伝う」とあり、川越街道や新河岸川の河岸場が整備されたことによって、江戸へ大動脈で繋がり、市から脱皮した常設店舗が増えて非常に賑わいを見せた。「武蔵三芳野名勝絵図」や「川越松山巡覧図誌」には商店が軒を連ねた店舗商業の発展が伺え、「遊歴雑記」には城下の街路について「いかにも賑やかにあたかも、江戸麹町一丁目より六丁目までの面影あり」と記載され、当時の商業の繁栄ぶりが伺える 幕末の慶応3年(1869)川越町諸色明細帳に町家家数856・人数4,486とある。 特に現在の札の辻から仲町にかけて、大店がが軒を連ねていたのですが、明治26年に川越大火が起こり、町全体の1/3以上である1,300余戸を焼失してしまった。そのときに大店が連なったこの辺りは全て灰塵と化してしまった。 川越商人は復興にあたり、焼け残った幾つかの土蔵をみて、伝統的な耐火建築である土蔵造りを競って採用したので、黒漆喰塗り込めの店蔵の連なる町並が出現し、一部が現在まで残っているのです。巨大な鬼瓦、黒漆喰の無骨な造り、重厚な観音開きの扉は川越独特の町並を構成し、当時の川越商人の経済力の強さを示す一つの事例でしょう。 明治31年の川越町の総戸数3,451のうち2,157戸が商業に従事し、卸売り商では繊維関係が28%、穀物・茶・肥料関係が15.2%を占めていた。 今は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、整備もすすみ多くの観光客が訪れていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 埼玉県の地名 埼玉県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1993年 歴史の町並を歩く 保育社 高士宗明 平成6年 関東小さな町小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 2001年 歴史遺産日本の町並108選を歩く 講談社+α新書 吉田桂二 2001年 |
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