佐原市の町並み 
佐原イ
地図


佐原イの町並
 「お江戸見たけりゃ佐原へ御座れ、佐原本町 江戸勝り」と唄われほど繁栄し、「利根川図志」には「下利根付第一繁昌の地なり」と紹介されるなど、利根川水運を利用してこの地が栄えていた。
徳川家康の関東入国直後から寛永17年(1640)頃にかけて、かって香取海と云われていたところを陸地化して、低湿のデルタ地帯に変えていった。いわゆる新島十六島新田や佐原村を含む五村による利根川対岸の村請新田が造られた。しかしこれらの低湿地域の新田集落は水害に悩まされ、その結果居村囲堤を築造し輪中集落化していった。
そして農業生産が活発になり、近郷農家を後背地とする商業地として、また、利根川水運による年貢米の集散地、また東北地方の物資輸送の中継地として佐原は繁栄の一途を辿った。
江戸時代の領主ははじめ幕府領であったが、旗本領、幕府領等を数回繰り返した後、元治元年(1864)から佐倉藩領となり幕末を向かえた。
佐原村は利根川の支流小野川を境に右岸東側一帯の本宿、左岸西側一帯の新宿とに大別されていたが、江戸時代前期には新宿側が上宿組・下宿組、本宿側が浜宿組・本宿組に区分され、後に本宿側に仁井宿組が加わり五組となった。
佐原村中央部の香取街道(銚子道)と小野川沿いに町並が形成されていた。家数・人数は宝永7年(1710)830・3,550、元文5年(1740)958・3,819、明和5年(1768)1,201・4,386、天保9年(1838)が1,033以上とある。
元文5年(1740)の佐原村明細帳によると家数958・人数3,819とある。天保9年(1838)の組ごとの家数・人数は上宿組123・579、下宿組4001,881、浜宿組330・1,655、本宿組263・1,357、仁井宿組41・175の合計1,163・5,647とある。
三と八の日に六斎市も開かれていたが、後に常設店舗が発達した。市での取引商品は春は穀物、夏は布、秋は穀物、冬は木綿・繰綿。元禄8年(1695)の市の商品は穀物・ござ・むしろ・箕・青物・茶・煙草・魚・塩・古着・小間物・紙・繰綿・木綿などである。
寛文年間(1661〜73)から酒造もはじまり酒造人数34にもなっていた。江戸への廻米増大に伴い河岸も発達し、江戸中期以降、利根川水運と結びついた廻米・酒造・商業活動を通じて、下利根随一の河港商業都市に発展した。
江戸期から昭和初期まで引き続き佐原は、水運による地方商業都市として繁栄した。特に穀倉地帯を背景とする米穀商の活動が活発であり、大正7年の県下米穀商人の商高の上位は全て佐原の米穀商が占めていた。しかし昭和はじめからの陸上輸送の急速な整備により、利根川水運は大きな打撃を受けて衰退していった。
小江戸と呼ばれた佐原市には今も往時の町並が残っている。それは佐原も例に漏れず、幾度も大火にみまわれている。特に明治25年の火災は大きく1,200棟の家屋が焼失した。この頃から防火を意識した土蔵造りや厚塗りの壁の建築が多く見られるようになったのである。
旧佐原村中央部の香取街道(銚子道)と小野川沿いに古い町並が残っている。多くは明治25年の大火後に建築された建物で、出桁造りや店蔵と呼ばれる土蔵造りの規模の大きな商家の建物が連なる。妻入りや平入りが入り混じり、中には寄せ棟の妻入りまでもある。関西の古い町並には寄せ棟は殆どないのが普通だが、この佐原では寄せ棟の建物が眼についた。
平屋建て、中2階建て、2階建て、平入り、妻入りが混在している町並であるが、香取街道も小野川も湾曲している部分に町並があり、変化に富んだ古い町並は評価できると思う。
町並み指数 60  
参考文献     
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和59年
  日本の地名 千葉県  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1996年
  関東小さな町小さな旅  山と渓谷社  山と渓谷社大阪支局  2001年
  歴史遺産日本の町並108選を歩く  講談社+α新書  吉田桂二  2001年

別写真

佐原イの町並

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