鴨川市前原・貝渚(かいすか)は房総半島の東南端に位置し、東は太平洋である。加茂川を挟んで北側に前原、南側が貝渚である。前原は横渚村の中に含まれ、前原が分立するのは明治7年である。 横渚・貝渚とも江戸はじめは里見氏領、元和元年(1615)幕府領の後、「正保郷帳」では横渚村は旗本北条氏領、貝渚村は玉取藩・旗本内藤氏・保科氏・植村氏の相給。「房陽郡郷考」「旧高旧領」では共に岩槻藩領。村高は慶長15年(1610)「里見家分限帳」で横渚村727石余、貝渚村815石余。「元禄郷帳」では横渚村690石余、貝渚村915石余。「天保郷帳」の横渚村713石余、貝渚村955石余。「正保高帳」では横渚村690石余、貝渚村895石余。 横渚村の前原は海岸沿いの町で、伊南房州通往還が町の中を通っていた。前原町は寛永年間(1624〜44)までは家居はなく、横渚村前の空地で前原と呼ばれていたとの言い伝えがある。延宝期(1673〜81)に紀州から任せ網漁が導入され繁栄し、元禄年間(1688〜1704)はじめ頃には他国の商人たちが店を構え、近郷の横渚村などの農民が移住し開拓を行い、現在の鴨川市街の根幹を形成した。しかし元禄16年(1703)の大津波により壊滅状態となったが、享保4年(1719)頃から次第に復興していった。 漁業は、当初は紀州漁民の出稼ぎであったが、彼らの定住により漁法も沿岸漁業から沖合漁業へと発展した。 元禄10年(1697)の酒造株糀株役永上納請書によると、前原町で酒造株主10軒と糀株主1軒が営業している所を見ると、漁業・商業の町として繁盛していた。 前原町の家数などは享保17年(1732)町明細帳控では、家数415・人数1,862で、多くの家は漁業・干鰯業に従事していた。天保村高帳によると横渚村528軒のうち前原に352軒あった。 江戸後期より何度も横渚村からの分離独立を求めるも許されず、分立が認められたのは明治7年になってからである。 貝渚村については、伊南房州通往還が町の中を通って、北の前原町から続いていた。元禄9年(1696)の飯野藩領分の村明細帳によると、当時村は領主ごとに4組に分けられていた。同藩領分の高は223石余。文化10年(1813)頃は新領貝渚村663石余、古領貝渚村291石余と二組になっていた。両組合わせて家数は550軒余であったが、うち430軒が漁稼ぎであった。 今、古い町並は前原・貝渚ともに旧伊南房州通往還に沿って展開している。2階建て切妻造り平入りの建物が多いが、寄棟もありナマコ壁の家屋や土蔵造りの店舗・本瓦葺の家屋も見られる。繁栄していた明治から大正・昭和初期の名残を留める町並が続く。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和54年 日本の地名 千葉・県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1996年 |
前原の町並 |
前原の町並 |
前原の町並 |
貝渚の町並 |
貝渚の町並 |
貝渚の町並 |
貝渚の町並 |
貝渚の町並 |
貝渚の町並 |
貝渚の町並 |