鎌倉時代の武家政治の根拠地鎌倉は三方を山で囲まれ、一方を海に面した要害の地であった。 1185年 壇ノ浦の戦いで平氏が滅び、源頼朝が守護・地頭を全国に設置し、鎌倉に幕府を置いたことにより、政治の表舞台に登場し、承久の乱を経てその支配は全国に及んだ。頼朝が鎌倉入りした時は、単なる農・漁村に過ぎなかったこの地域は、幕府の根拠地として非常な発展を遂げた。貞永元年((1232)、御成敗式目五一ヵ条を制定して武家法の成立を明らかにしてからは、都市としての鎌倉の発展は大きかった。 その後、元弘3年(1333)新田義貞による鎌倉攻撃が始まり、鎌倉は陥落し繁華な都市も一時は廃墟となってしまった。 やがて室町幕府が確立し、東国10ヶ国を管轄する鎌倉府のもとで再び都市として復興し、最盛期に迫るほどの繁栄を取り戻した。商工業の中心地域は大町辺りから海岸よりの地域であった。 そして、鎌倉の支配者であった関東管領上杉氏が文明9年(1477)に鎌倉を去って上野国に移ってから、鎌倉は関東の政治的中心としての機能がなくなり、都市として衰えていった。 徳川家康の支配下の江戸期には、一部の寺社が保護されたくらいで鎌倉全体は衰微したが、古都として寺社参詣や名所遊覧が盛んになりった。特に江戸中期以降は江ノ島参詣と兼ねての鎌倉遊覧が、江戸庶民の間で盛んに行われるようになった。これらの庶民の需要に応じて多くの鎌倉名所記や鎌倉絵図が売り出された。 幕末になって外国船の往来がはじまり、海防が重要視されるようになると鎌倉あたりの警備も重要を極めた。 明治22年に国鉄横須賀線が開通して鎌倉駅が開設されると、東京と鉄道によって直結され、海水浴場や保養地として発展していった。東京近郊の別荘地・保養地として発展を遂げつつあった鎌倉は、大正12年の関東大震災で大きな被害を受けた。震災と津波による被害は甚大で、鎌倉町の全戸数4,138戸の内、全半壊3,004、全焼443、津波による流出113、死者412、重傷者341という。 大正14年には横須賀線が電化されて、運転回数も増え、所要時間も短縮されて東京・横浜への通勤が可能になり、鎌倉の人口が急激に増加した。 第2次大戦後は別荘地・保養地から一般住宅への変化が進み、宅地化が進んだ。 今回訪ねた所は旧長谷村辺りで、長谷寺や鎌倉大仏の門前町にあたる場所である。現在の鎌倉市長谷1〜5丁目・由比ヶ浜3〜4丁目・坂ノ下である。 江戸時代は幕府領と長谷寺領で、「風土記稿」によると、天保初期の家数は101で、長谷小路から神明町を経て上町にいたる道の両側に人家が並び、農間余業に旅館を営み、小名新宿では漁業も営んだという。 今も六地蔵前から長谷観音前までのバス道の両側に古い形式の民家が点在する。看板建築・寄せ棟・海岸沿い独特の板張りの家・銅板貼りの看板建築など多彩な様式形式の家が点在していた。バス道に沿った商店街の北側は大正時代から昭和はじめに開発されたような別荘地や住宅地が展開し、しっとりと落ち着いた町並を形成していた。 神奈川県の歴史散歩上 山川出版社 群馬県高等学校教科研究会 1998年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59 神奈川県の地名 平凡社 下中邦彦 1984年 |
長谷2丁目の町並 |
長谷1丁目の町並 |
長谷3丁目の町並 |
長谷1丁目の町並 |
長谷1丁目の町並 |
長谷1丁目の町並 |