鎌倉市雪の下は神奈川県南東部、三浦半島の基部、古鎌倉湾の沖積地に位置する。地名の起りは、源頼朝が盛夏でも雪を賞味するため利用した氷室が、鶴岡八幡宮北側に在ったことからに由来する。 鎌倉が一番発展したのは中世である。その解説は別の機会にと思うが、雪下村は中世鎌倉の中心にあたり、大倉の幕府跡も含む地域であり、若宮大路・小町大路・横大路・六浦道などが通っていた。 寛永10年(1633)・元禄10年(1697)・幕末ともに鶴岡八幡宮領と幕府領。村高は「元禄郷帳」15石余と永134貫余、「天保郷帳」15石余と永125貫余、「旧高旧領」15石余と永138貫余。 天保初年(1830頃)の家数145、うち鶴岡社人40。八幡宮の付近のため賑やかな町であり、旅籠などを営む者も多く、人馬の継立が行われていた。 江戸時代には古都として寺社参詣や名所遊覧が盛んになり、とくに江戸中期以降は、江の島参詣と兼ねての鎌倉遊覧が江戸庶民の間で盛んに行われるようになった。 明治9年の家数158・人数684。民業の家数は農業専業70・商業50・工匠20・雑業16などであった。 明治22年に国鉄横須賀線が開通し鎌倉駅が開設され、東京と鉄道によって直結することとなり、海水浴場や保養地として知られるようになった。とはいえ、明治年間はまだ市街地の発達は顕著でなかった。明治43年に今の江ノ島電鉄が開通し、保養のための来住者や京浜地帯の名士の別荘が増え、また横須賀の軍港に勤める海軍の高級将校などの住宅もできたが、市街地はなお雪の下・長谷の門前町・大町・小町の商業集落、坂の下・材木座の漁業集落などが散在する形態のままだった。 東京近郊の保養地・別荘地として発展を遂げつつあった鎌倉を、大正12年の関東大震災の津波が襲い、大きな被害を受けた。 第2次大戦後は保養地・別荘地から一般住宅地への変化が急速に進み、とくに旧鎌倉周辺の宅地化は著しくなったため、昭和41年古都保存法が制定され、多くの所が歴史的風土保存区域に指定された。 さて、今の雪の下の様子ですが、鶴岡八幡宮に参拝された観光客が、食事や土産物を求めて訪ねる町並であった。この道は中世の鎌倉街道上道と云われる道で、今は小町通りと云われている。これという目ぼしい古い建物もない町並であるが、電柱や電線・テレビのアンテナが取り払われたすっきりした町並が、多くの観光客で埋め尽くされていた。 若宮大路が鶴岡八幡宮の参詣道であるが、参詣道があまりに広くなり過ぎ公園化されたために、古くからの街道筋であるが、参詣道脇道のこの道が賑わっているという妙な現象になっていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59 神奈川県の地名 平凡社 下中邦彦 1984年 神奈川県の歴史散歩下 山川出版社 神奈川県高等学校教科研究会 1999年 |
雪ノ下1丁目の町並 |
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