市川市本行徳は千葉県の西端、旧江戸川を隔てて東京都と接し、旧江戸川と江戸川放水路で区切られ島になっていて、旧江戸川の左岸に位置する。 江戸時代は幕府領で推移した。村高は「元禄郷帳」1,088石余、「天保郷帳」1,208石余、「旧高旧領」1,342石余。 本行徳村の地先の海浜は塩浜となっていた。集落は南西方の欠真間村から当地まで江戸川沿いに走る佐倉道にそって街村を形成していた。南西からの佐倉道は当地で東に折れ、下妙展村・上妙展村・船橋町などを経て、佐倉・成田方面に通じていた。一方、東に折れずそのまま江戸川沿いに北上し、八幡宿や市川村方面とを結ぶ道も通じており行徳道と呼ばれていた。 また、この地は古くから川関が置かれるなど交通の要衝であった。 寛永9年(1632)行徳に河岸場が 設けられ、旅人改番所が置かれた。また、江戸日本橋小網町(首都高速道箱崎ランプ入口辺り)には旅人・送り荷の揚場が設けられ、行徳河岸と呼ばれていた。 江戸までの経路は、3里8町で、江戸川から新川に入り、小名木川を経て隅田川を横断し、小網町の行徳河岸に至るもので、行徳特産の塩を江戸に運ぶために開削されたも。3里8町に就航した船を行徳船といい、幕末には62艘にも及んだ。 この経路を房総・常陸諸大名の参勤交代や鹿島神宮・成田山・香取神社の参詣などに利用された。 行徳の塩は幕府成立当初からその保護を受けていて、品質・生産面で瀬戸内の塩に劣りながらも軍事的な目的のために生産が続けられた。しかし、幕府の保護も時代が下るにつれて弱まり、その上大正6年当地を襲った津波によって大打撃を受け、昭和4年の塩地整理により塩産業の歴史を閉じ、昭和24年に塩田の姿も消えてしまった。 さて、今に残る古い町並は旧江戸川に沿って、欠真間村(現南行徳)から行徳、そして下妙典・上妙典と続く旧佐倉道沿いに展開している。連続した古い町並とまではいかないが、伝統的な様式の建物が、点在し古くから栄えていた町並だったと判る。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59年 日本の地名 千葉県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1996年 |
本行徳の民家 |
本行徳の民家 |
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本行徳の民家 |
本行徳の民家 |
本行徳の民家 |
本行徳の町並 |
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妙典3丁目の町並 |