檜原村数馬の町並
数馬
地図


数馬の町並み

 檜原村は東京都の最西端に位置し、多摩川最大の支流秋川の最上流域で、村の大部分が秩父多摩甲斐国立公園に属する山村である。大岳山(1266.5m)、御前山(1405m)、月夜見山(1147m)、三頭山(1527.5m)などが聳え、これらの水を集めた北秋川・南秋川は東流して、本宿で合流、秋川となってあきる野市方面に流れ、東京湾に注ぐ。
それと、江戸時代の檜原村の範囲が殆ど変わることなく、そのまま今でも檜原村の範囲というのも大変珍しいこと。日本全国殆ど合併・分割を繰り返しての地方自治体の姿の中で不思議にそのままの状態で今に続いている。
江戸時代を通じて幕府直轄領。寛永8年(1631)本宿に口留番所が置かれ、厳しい通行規制を加え、甲州裏街道の押さえとする必要から幕府直轄領としていた。
寛永期(1624〜44)には御林山が五ヶ所設けられ、これらの御林守が命じられている。下藪刈や野火除けの見回りなどが課されて負担は重かった。一方御林山から炭用の原木が払い下げられており、生産性の低い村方にとって木炭は主要な産物となった。
家々の生業は製炭業・木挽職・杣職・筏師など山林に係るものが中心となっていて、文化6年(1809)では当村の筏師は15であった。
寛文7年(1667)では家数526戸である。これらはの家々は23組の谷戸別の集落単位に組織されていた。本宿以東で3組、北秋川谷で10組、南秋川谷で10組である。今回訪ねた数馬・事實(ことずら)・上川乗は南秋川谷組に属していた。

さて、数馬集落は南秋川に沿って集中していて、集落内を南秋川に沿って都道206号線が貫いている。
江戸時代は檜原村の数馬組といわれていた。化政期(1804〜30)の家数18軒。天保11年(1840)の組合村高家数取調町帳では家数18軒。
今、数馬集落を訪ねると「かぶと造り」の茅葺き屋根の民家が点在している。これだけかぶと造りの民家が集中して残っているのは珍しいと思う。
かぶと造りは養蚕を行う際の、採光・通風・保温のために、寄棟の妻側を切り、切口に2段以上の茅のひさしをつけたもので、その外観がかぶとに似ていることからその名がついたもの。
町並み指数  30
参考文献
   東京都の歴史散歩中  山川出版社  東京都歴史教育研究会  1997年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和53年
   東京都の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  2002年


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