飯能市の町並 
本町・山手町
地図


本町の町並
 「飯能は江戸の火事を引き受ける」と言われ、名栗渓谷から飯能に入った杉丸太を中心とする木材を筏に組んで、入間川へ流送したからだろう。
飯能は江戸初期には幕府領であったが、宝永4年(1707)常陸下館藩領、享保17年(1732)上野沼田藩領、寛保2年(1742)からは上総久留里藩領であった。
早くから入間川の谷口集落として開け、川越道と秩父往還が交差して町場化が進んだ。元禄年間(1688〜1704)から六斎市が立ち始め縄・莚・炭・薪を中心に交易がはじまり、そこへ絹織物の取引が盛んになり、幕末頃には絹織物から米穀・絹太織に至るまであらゆるものが交易された。
また江戸中期からは、入間川上流からの杉材の集散地として栄え、街道沿いには商家が軒を並べた。寛保〜安永年間と思われる村明細帳によると家数138・人数619、紺屋3軒をはじめとして6人の職人・商人は清酒屋9人・炭焼き5人・穀売り・塩肴売り各4人など28人がいた。また化政期の家数136とある。
近世末期から近代初頭にかけて起こった飯能戦争で飯能は焼土となったが、在郷町の機能は維持できたので、六斎市や筏師も活発に活動し、新しい町造りは着実に進んだ。
輸送路開発に道路整備が進み馬車が通り、大正4年には池袋から武蔵野鉄道が開通し、伝統のある筏流しは途絶した。その頃には東飯能駅近くは材木町の様相を呈していた。
今、古い町並みは県道28号線広小路から郷土館方面の名栗渓谷に向う大通りに展開している。土蔵造りの店蔵と厚みの薄い感じの屋根が入り混じった町並である。この薄い感じの屋根はかっての石置き屋根をトタン葺きやスレート葺きに改造したものの様である。どの家も間口が狭く奥行きの長い長方形の敷地に、店蔵・主屋・土蔵と並んでいるのは、古い町並の特徴である。
それらの伝統的な建物も通りに連続して並んでいるとは云えず、点在している程度であった。
そんな中に近代建築の飯能織物協同組合の建物も、当時としては異色の建物であったろうと思う。
町並み指数 30
参考文献     
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和55年
  日本の地名 埼玉県  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1993年

本町の町並

山手町の町並

山手町の町並

本町の町並

本町の町並

本町の町並

近代建築の飯能織物協同組合
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