行田市の町並 
行田・忍1丁目
地図


行田の町並
 行田市行田は埼玉県北部に位置し、利根川と荒川両河の乱流によって形成された沖積平野の自然堤防上に出来た町である。
行田町は忍城の城下町であって、「新編武蔵」では「城下町」という標題でこの町を記述している。「南の佐間口から城の外郭を通り、八間門から行田の新町に入る。そこから城の東郭に並行して北に向うと、新町と上町が丁字形に交差する札の辻にいたる。西に折れれば……」。城を忍城と呼び、城下町を行田と言い習わしていた。
江戸期を通じて家数500〜600・人数2,000〜3,000の間を上下していた。
日光八王子道に沿う宿駅として行田は人馬役を受けもっていたが、中山道のように繁華な宿場と異なり、見返りの利潤も無く、負担が重くのしかかっていた。承応2年(1653)から六斎市が立ち、化政期(1804〜30)以後は当地の特産であった木綿織物の売買が盛んに行われた。
江戸後期から農間余業を母胎として発生した足袋生産は、明治維新後急速に発展をみて、行田足袋という名で有名になった。背景には衣類着用制度が無くなり大衆商品化の糸口が開かれ、また、職を求める下級武士の参加によって労働力が増強し、生産額が著しく高まった。明治27年には生産工程にミシンが導入され、忍商業銀行の設立が業界のバックとなって、地場産業の基礎が固まった。大正時代には機械の電動化もあり、昭和13年の最盛期には年産7,600万足に達した。
JR行田駅が町の中心部から随分離れた所にある。聞くとJR行田駅開設は昭和41年と云う。明治16年上野〜熊谷間の日本鉄道開設当時、鉄道は町の発展を阻害するとして、行田は同鉄道の地域内通過を断ったという伝説がある。以後、東京と直結する国鉄の駅を持たない町となった。
大正10年には北武軽便鉄道羽生線ができて、翌年には行田と熊谷駅を連絡した。この北武軽便鉄道が今の秩父鉄道であるが、今も一本の電車で東京に行けない不便さを抱えている。
今、行田市は足袋藏の町として売り出しに懸命になっている。明治から昭和にかけて建てられた200戸とも云われる蔵が存在していて、中でも行田の主要産業だった足袋の保管蔵が多く見られる。弘化3年(1846)と明治5年に大火が発生し、それをキッカケに耐火性の良い店藏や土蔵が多く造られたのが、今、行田や忍辺りで多く見られる。建てられた年代も、構造材も異なるいろんな種類の足袋藏が見られ、公開されている藏も多くあった。多いのは土壁の土蔵型式のものだが、大谷石積のものやレンガ造りの土蔵も見られた。
町並み指数  30 
参考文献     
  角川日本地名大辞典    角川書店    角川日本地名大辞典編纂委員会    昭和55年
  埼玉県の地名    埼玉県   平凡社  ( 有)平凡社地方資料センター      1993年 
  埼玉県の歴史散歩   山川出版社   埼玉県高等学校社会科研究会    1999年  

行田の孝子藏

行田の足袋藏ギャラリー

行田の草生藏

行田の大澤蔵

行田の今津蔵

行田の町並

行田の足袋とくらしの博物館

忍一丁目の時田蔵

忍一丁目の小川忠次郎商店

忍一丁目の時田足袋藏
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