深谷市の町並み 
仲町・本町・田所町・本住町
地図


田所町の町並
 深谷の江戸時代は中山道の深谷宿として栄えた町である。
それ以前は、天正18年(1590)の徳川家康関東入国後、松平(長沢)康直は深谷城に入封し、元和8年(1622)酒井忠勝が一万石で入封して深谷藩が成立した。その後加増され5万石となるが、寛永4年(1627)藩主酒井忠勝の転封で、深谷藩は廃藩となり、深谷は幕府領となり幕末に至った。
正保国絵図には深谷町とあるが、田園簿では深谷村を記されている。
中山道深谷宿は今の深谷市中央部西寄りに位置し、宿村として繁栄していた。安永3年〜文政12年(1774〜1829)の深谷宿御用向明細書手控では、宿の長さは965間3尺、道幅は3間〜5間、宿内家並は東西15町ほど、宿内の家数494、人数1,711。男は農間に宿場往来荷物の日雇稼、女は農間に宿場旅人の世話や糸木綿稼ぎを行っていた。本陣1、脇本陣4があり、旅籠屋は宝暦年間(1751〜64)22軒〜23軒、天明3年(1783)に44軒とある。
天保14年(1843)の宿村大概帳では、宿の規模は東西10町、南北3町、町名は江戸方面から稲荷町・本住町・仲町・本町・相生町・田所町と続く、家数525軒、人数1,928人、本陣1、脇本陣4、旅籠80(大7・中20・小53)、問屋1。旅籠屋は埼玉県中山道9宿のうち最も多い。また宿場の女性が多いのも特徴で飯盛り女が多かったようで、旅籠屋の強引な客引きが知られていた。
宿村での生業は農業中心で、米・麦・大豆・栗・大根などの他桑・繭・生絹などの栽培・加工も盛んであった。また六斎市の立つ5と10の日には近郷からの交易品で宿は賑わいを見せた。
明治に入って瓦の生産や当地出身の実業家渋沢栄一によるレンガ製造によって大いに潤った。また明治初年までは蚕種中心の蚕産業も盛んであったが、明治10年頃より生糸生産が活発化し、その恩恵は昭和初期まで続いた。
JR深谷駅を降りるとまず眼にするのは、東京駅を模して造られた深谷駅。東京駅のレンガを供給した深谷ということで東京駅を模したそうだ。深谷駅から真っ直ぐ歩いて500m程で旧中山道に来る。旧宿場はそこから東西約1km程に広がる。この旧宿場を歩いても当時の面影は石碑や道標程度であるが、旧街道沿いには袖卯建を備えた重厚な町家が点在する。中にはレンガの産地らしくレンガ造りの袖卯建兼用のレンガ壁を備えた家まで見られる。多くの造り酒屋も健在でレンガ煙突が聳えている光景は古い町だと意識させるに十分である。
本陣の建物の一部が、今の飯島印刷の飯島家の住居として当時の姿を残しているようであるが、勿論公開はされておらない。
なお、この深谷宿では全くといっていいほど町並保存対策がなされていないようで、その点が気がかりな訪問であった 
町並み指数 30
参考文献     
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和55年
  埼玉県の地名  埼玉県  平凡社 (有)平凡社地方資料センター  1993年

仲町の町並

本町の土蔵

本町の町並

本町の町並

田所町の町並

本住町の町並
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