結城市は近世初期以来の伝統を持ち、高級絹織物産地として全国的に有名である。 中世初期からこの地を支配していた結城氏は結城18代秀康 (徳川家康の次男で豊臣秀吉の養子になっていた秀康が結城晴朝の養子となって結城城に入ったもの) が慶長6年(1601)に越前北庄へと転封し、この地は幕府領となり代官頭伊奈忠次の支配下から、元禄13年(1700)までの間の領主変遷は誠に激しく、25人の譜代大名、代官支配の後、元禄13年(1700)水野勝長が入部し、そのまま明治維新を迎えた。 秀康が新城下町として町割りしたのは、殿町・大町・西宮町・裏町・長横町・番匠町・大切町・石町・鍛冶町・木町の11町であった。殿町は侍町で、結城城大手通り沿いに置かれ、他は町人町でその西側に配置された。そしてその周囲を空堀(御朱印堀)で取囲んでいた。御朱印堀の内側の町人町は商人町である大町・西宮町・裏町・長横町・石町・木町と職人町の紺屋町・鍛治町・番匠町・大切町からなり、特に大町・西宮町・裏町は城下の中核で規模も大きかった。 元禄4年(1691)の「結城町町中間数・家数・屋敷町歩書上帳」によれば、前記の11町の他に寺町・南殿町・塔ノ下町・西町・立町・肝煎町・小袋町・白金町・外張町・鉄砲町・神明町の11町が成立していて、増加分はいずれも御朱印堀の外に建設されていた。 元禄16年(1703)水野勝長の重臣水野織部が城下を見聞した時、家数は1,036・人数4,485であった。宝暦元年〜天明4年(1751〜84)では家数1,015・人数4,518。明和8年(1771)には家数1,148・人数4,905とある。 この地では主穀生産農業の他に、元禄年間(1688〜1704)頃には既に養蚕業がかなり発達し、蚕種生産も行われていた。養蚕業を基盤として造られたのが結城紬である。特に水野氏が結城に定着してから保護奨励し、特産品としての地位を固めてきた。また、元禄期以降には綿の栽培も行われその織物は真岡木綿として知られていた。 そして明治に入り結城は急速に発展した。明治17年の県勧業年報によると、当時年間5,000円以上の商い高の商人数では、近燐都市と比べ圧倒的に多い。古河町7人・下館町8人に比べ結城町は19人の多数である。そして大多数は穀物商と織物・酒造関係が大商人の中心であった。 その当時の店蔵や土蔵が今に残リ、結城の蔵の町並を構成しているのである。殆どの建物は明治初期から大正期にかけて建てられたものです。一般に関東地方の古い建物は防火対策で、上方の建て方とは異なり、重厚な蔵造りの形式が採用されていて、上方の瀟洒な建て方と関東の無骨で重厚な建て方の差は歴然としていて、関西人から見ると頭でっかちの建物との印象が強い。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 日本の地名 茨城県 平凡社 下中邦彦 1982年 |
結城(旧大町)の町並 |
結城(大町)の町並 |
結城(大町)の町並 |
結城(西宮町)の町並 |
結城(裏町)の町並 |
結城(裏町)の町並 |
結城(裏町)の町並 |
結城(西宮町)の町並 |