宇都宮市大谷町は大谷石(凝灰石)の産地として知られ、東京帝国ホテル旧館の建築で使用されたのは有名である。 大谷石の採掘は奈良時代から行われていたようで、石室に大谷石を使用した古墳も見られる。近世初頭、本多正純による宇都宮改築の際大量に使用された。しかし貞享2年(1685)奥平昌章の宇都宮入部により当地(当時は荒針村)は旗本領となったため、宇都宮藩は御用石材の産出を新里村・岩原村に命じている。一般にこの辺り一帯から切り出された凝灰石を大谷石と云っている。 江戸期の大谷石の切り出しは小規模な採掘で、嘉永年間(1848〜54)の「石切仲間議定書」には「農間岩切渡世」とあることから、農間稼ぎの副業的な存在だったようだ。 明治7年の「建築石取調」によると、大谷石の産地は荒針村の他、徳次郎宿・東新里村・西新里村・田下村・戸祭村・下横倉村・岩原村である。切り出された石材は馬車で宇都宮に運ばれた。明治30年石の搬出を目的に宇都宮軌道運輸会社が営業をはじめ、販路が拡大され大谷石の需要が大きく伸びた。 出荷量の推移を見ると、明治40年代には10万トンを越し、大正10年には20万トンに達したが、昭和に入って10万トン台に落ち、昭和20年には1万7000トンまで激減した。第2次大戦後は都市の復興と産業の発展によって石材需要は増加し、昭和32年には32万トン、昭和49年には89万トンと最大出荷量を示したが、その後経済の低迷が続き出荷量も減少し、40万トン前後で推移している。 採掘業者は大谷町の大谷寺(大谷観音)の門前辺りに多く、門前町の様相を示している。大谷石で建てられた民家や土蔵・倉庫などは大谷町ばかりでないが、産地というので大谷町を訪ねた。大谷石はあらゆる建材として利用されていて、土蔵や主屋は勿論、石塀、農作業小屋から土留めまで利用されていた。 大谷寺は大谷石の自然窟の中の壁面に彫られた千手観音を本尊とし、自然洞窟の中に本堂が建てられていた。 町並といえるほど密集した集落でなく、大谷石でできた土蔵や主屋が点在している農村集落であったが、大谷寺の近くでは大谷石が多く露出した個所があり。その上に松が生茂っていて公園になっていた。「陸の松島」とも呼ばれているそうだ。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59年 日本の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1988年 栃木県の歴史散歩 山川出版社 栃木県歴史散歩編集委員会 1999年 |
大谷の民家 |
大谷集落にある大谷石の小屋 |
大谷の民家 |
大谷の民家 |
大谷集落では塀まで大谷石だった |
大谷の民家 |
大谷の民家 |
大谷の民家 |