栃木市の町並み 
倭町・万町・入舟町・泉町・嘉右衛門町
地図


倭町の町並
 栃木は巴波川舟運により江戸と繋がり物資の集散地として、又、例幣使街道の宿場町として発達した町で、今は蔵の街として知られている。
栃木町は皆川広照により、天正年間(1573〜92)に栃木城が築城され、それに伴って城下町も整備され、短冊型の屋敷割りなど計画的に町割りがなされた。しかし広照は慶長8年(1603)当地を去ったため、この地は城下町としてでなく、物産の集散地と宿場町として発展した。
江戸時代の初めは皆川藩領、慶長14年(1609)幕府領、元和元年(1615)榎本藩領、寛永16年(1639)再び幕府領、正保4年(1647)武蔵岩城藩領、天和年間(1681〜84)幕府領、宝永元年(1704)から足利藩領となっている。
巴波川の舟運は元和4〜8年(1618〜22)頃、日光社への御用荷物運送をきっかけとして成立した。江戸とは大型の舟で利根川・渡良瀬川と運航され、部屋・新波河岸で高瀬舟などに積みかえ、巴波川遡航終点の栃木河岸までくる。そして栃木からは陸路で鹿沼宿から日光、奥州会津および宇都宮方面へと運ばれた。また、栃木の背後地の日光・足尾・南会津方面の物資の集散地の商業町として栄えた。
栃木河岸では背後地で生産された麻・木綿・材木・炭・油・石炭・酒などを江戸に送り、江戸からは塩・砂糖・鮮魚・糖・干鰯・化粧油などが陸揚げされていた。
享保16年(1731)の家数413・人数2,154。天明7年(1787)家数743。天保年間(1830〜44)の家数1,092。慶応4年(1868)の家数756・人数3,466。
町の中央を例幣使街道が南北に通り、上町(現万町)・中町(現倭町)・下町(現室町)の三町を中心に5〜6間の道路の両側に家並みが続いていた。そしてこれら三町の東に横町(現旭町)、西横町などがあり、文化2年(1805)町明細帳では往還長さ8町54間・道幅15間で、文化元年(1804)の家数は566・人数2361。天保14年(1843)では家数1,030・人数3,999、本陣は宿内の中町に一軒、脇本陣は無かったが、定願寺や近龍寺があてられることがあり、旅籠屋は7軒であった。
栃木町の北、巴波川左岸に立地する例幣使街道沿いの嘉右衛門新田村は栃木町の発展に影響されて町場化した村である。享保元年(1716)の家数32・人数134。天明3年(1783)の家数39・人数133。文化7年(1810)の家数95・人数338。天保5年(1834)の家数107・人数392。天保14年(1843)の宿村大概帳によると例幣使街道の往還通りの長さは3町40間でこの間は残らず家並みが続いている。
蔵の街と云われるようになったのは、火事が多かったからで、幕末期には弘化3年(1846)・嘉永2年(1849)・文久2年(1862)・元治元年(1864)の4回立て続けに大火があった。その教訓から明治6年に修繕・新築の際には杉皮・藁・茅などの屋根を禁止するとの県令の通達が出され、以後瓦屋根・土蔵造りが急増してやがて「蔵の街」といわれる景観を呈するようになったのである。
土蔵造りの店、黒壁の土蔵、格子造りの商家など重厚な造りの商家。重そうな屋根をもった建物が連なり、蔵の街の面目を保っている。
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参考文献     
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和59年
  日本の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1988年

倭町の町並

倭町の町並

倭町の町並

万町の町並

万町の町並

入舟町の町並

倭町の町並

倭町の町並

泉町の町並

嘉右衛門町の町並
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