栃木市嘉右衛門町は栃木県南部中央部で、県都宇都宮市から南西約25km、巴波川左岸の低地に位置する。 「天保郷帳」では嘉右衛門新田村と見える。慶長17年(1612)榎本藩領、のち幕府領、正保4年(1647)武蔵岩槻藩領、天和元年(1681)再び幕府領、貞享2年(1685)からは旗本奥高家 畠山氏知行で明治維新を向かえる。 嘉右衛門新田村の村高は、「慶安郷帳」「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに25石余。 栃木町は天正年間(1573〜92)領主皆川広照により栃木城が築城され、計画的に城下町の割り付けがなされたが、慶長14年(1609)信濃飯山城にあった皆川広照の除封により、栃木城は取り壊しとなり、城下町ではなく物資の集散地・例幣使街道の宿場町として発展する。 巴波川の船運も元和4〜8年(1618〜22)頃、日光への御用荷物運送をきっかけに成立し、栃木河岸が繁栄した。 嘉右衛門新田村は天正年間(1573〜92)に岡田嘉右衛門が独力で開発したもので、例幣使街道が通る狭長な村。栃木町の商圏の北側への広がりは、その北に接した例幣使街道沿いの嘉右衛門新田村の発展をもたらした。家数・人数は享保元年(1716)32・134、天明3年(1783)39・133、文化7年(1810)95・338、天保5年(1834)107・392、嘉永6年(1853)148・509とあり、宿村大慨帳によると例幣使街道の往還通の長さは3町40間で、この間は残らず家並みが続いている。栃木宿まで16町で、明和3年(1766)より同宿の定助郷を勤め、勤高は18石であった。 岡田嘉右衛門は栃木町の商人に対抗して手広く商売を行っていて、他にも醤油屋・粉商・袋物商・麻商・菓子商などが見られた。 奥高家畠山氏の陣屋がこの地に置かれていて、現在の岡田嘉右衛門邸が陣屋跡である。 今町並みを歩くと、旧例幣使街道に沿って古い町並みが展開している。代官屋敷岡田記念館(岡田嘉右衛門邸)の重厚な門を中心に、小さな湾曲を繰り返す例幣使街道に沿った町並は見事なものと云える。 町並の統一性はないようで、平入り・妻入り、平屋・中2階建て・2階建て、切り妻造り・寄棟造りなどが連なる。虫籠窓・千本格子なども見られ、防火を考慮した土蔵造りの家屋も多い。 多くの伝統的な様式で建てられた家屋は、江戸末期から明治期・大正期の建物が多いと思われる家並みであった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59年 日本の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1988年 |
嘉右衛門町の町並 |
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