玉村町の町並み
下新田
地図


下新田の町並

 玉村町上新田・下新田は群馬県南部、利根川中流右岸と烏川下流左岸に挟まれた所に位置する。
下新田村は江戸はじめは幕府領、寛永年間(1624〜44)から前橋藩領、延享4年(1747)から幕府領と旗本山田氏・井上氏の相給となり明治を向かえる。上新田村は江戸はじめは前橋藩領、延享4年(1747)から幕府領で明治になる。
「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」で下新田村は717石余、上新田村は920石余。
慶長10年(1606)代官として派遣された伊奈忠次は、荒れ果てた原野に利根川から水路を開削し、苦心の末滝川用水を竣工し、新田開発を行い付近の農民を移住させてこの地の繁栄の基礎を造り、玉村新田町と称した。正保4年(1647)上新田・下新田村に分村され、その後両村で玉村宿を形成した。
安政年間(1854〜60)の家数・人数は下新田村は201・621。上新田村は142・584とある。
幕末の改革組合村高帳によると、上新田・下新田両村の玉村宿ほか24ヶ村組合の寄場村となっていて、下新田村は高708石余、家数136。上新田村は高920石余、家数111とある。
さて、玉村宿については、中山道倉賀野宿より分岐する日光例幣使街道の最初の宿駅。同街道が東西に、佐渡奉行街道が南北に通る交通の要衝。正保4年(1647)以後、日光例幣使の恒常的な通路となり、本陣や問屋も整備された。明和元年(1764)には例幣使街道が幕府道中奉行の管轄となり五街道並の扱いを受け、玉村宿も道中奉行の支配下に入った。
天保14年(1843)の例幣使道宿村大慨帳によると、宿高1,629石余、町並は東西20町19間余、家数270、人数1,032、本陣1、旅籠屋36(大9・中12・小15)、問屋場は2ヶ所あり10日ごとに交代した。
日光例幣使街道第一番目の宿場として指定されて以来、幕末にかけて急速に繁栄した。玉村宿の旅籠屋62軒のうち飯盛女のいる家36軒・平旅籠5軒・茶屋9・小料理屋11。これらは当初旅人の宿泊に供されていたが、幕末から明治にかけて歓楽街に変貌したので、度々自粛の通達が発しられている。
このような歴史ある玉村宿であるが、今町並みを歩いても、宿場町当時の面影を残すものが少ない。
慶応4年(1868)の大火によって、宿の殆どが焼失し本陣木島家も焼失してしまった。今ある町並はそれ以後に建てられたもので、土蔵造りの家・煉瓦造りの家や土蔵が建ち並ぶ町並みだが、昔の面影が殆ど感じられないのは、道路拡張によって町並が壊された為だろうかと思いながらの町並み探索だった。
町並み指数  30
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和63年
   群馬県の地名  平凡社  平凡社地方資料センター  1987年


下新田の町並

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