倉賀野は江戸時代、中山道の江戸日本橋から12番目の宿場で、日光例幣使街道の分岐点に当たる宿として賑わっていた。また、烏川に江戸との物資輸送の河岸もあって繁栄していた。 嘉永5年(1852)の「倉賀野宿明細帳」や「中山道宿村大概帳」によると、家数は寛文5年(1665)180軒、寛政12年(1800)456軒、天保14年(1843)297軒、嘉永5年(1852)330軒。人数は天保14年(1843)2,032、嘉永5年(1852)2,113。本陣1・脇本陣2があり問屋場は3ヶ所に置かれていた。旅籠屋は享保3年(1718)64軒、嘉永5年(1852)に32軒であり、農間余業として酒造業3・酒屋10・豆腐屋10・小間物売りほか10などであった。 正徳3年(1713)往還通絵図や中山道分間延絵図などによると、宿の東入口(下の木戸)で北東に向う日光例幣使街道を分岐し、宿は東の入口(下の木戸)から西の入口(上の木戸)まで東から下町・中町・上町に分かれていた。中町の南側に本陣、上町の北側と南側に脇本陣があった。 嘉永5年(1852)の倉賀野宿明細帳によると、本陣は勅使河原八左衛門家、脇本陣は須賀庄兵衛、須賀喜太郎の両家であった。 また倉賀野河岸は利根川筋としては最上流に位置した河岸で、利根川の一支流烏川の左岸段丘上に設置されていた。中山道の宿場で、日光例幣使街道の起点でもあり、江戸と上信越地方・中山道一帯を結ぶ物資の集散地として、利根川上流では最も重要な河岸として繁栄していた。 倉賀野は宿場と河岸が一体となっているため、商人・旅人のほか河岸で働く船頭・荷役・船大工や街道筋で稼ぐ牛方・馬方などで賑わい、旅籠は多くの飯盛り女を抱えていた。 天保6年(1835)の宿内の大火では、本陣・脇本陣をはじめとして、家屋・土蔵・河岸場蔵などに大きな被害を被った。この大火の後に建築された脇本陣の須賀家の卯建を備えた建物が今でも残っている。 この倉賀野を訪ねた時に、どうした訳か旧本陣から西側半分を訪ねただけで、東半分を訪ね損ねた。あとで他の人から指摘を受けてシマッタと後悔し、また、機会をつくって訪ねたいが、当分ダメでしょうね。 宿場町当時の面影は殆ど無くなっている。国道17号線は旧中山道から外れて通っているが、それでも旧街道(県道)が拡張されたのだろう。特に県道の南側には殆ど伝統的な家屋は見られなかった。 群馬県の歴史散歩 山川出版社 群馬県高等学校教育研究会 1998年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63 群馬県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1987年 |
倉賀野の町並 |
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倉賀野の町並 |
倉賀野の町並 |
倉賀野の旧脇本陣の建物、袖卯建が見える |
倉賀野の町並 |
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