当地の江戸期は下館藩の城下町で綿栽培の盛んな地であって、真岡木綿として知られていた。 文明10年(1478)、結城合戦のどの軍功により、結城氏広は家臣の水谷勝氏に下館地方を与え、太田の佐竹氏らへの防衛のため築城を許可したのが下館城のはじまりである。 関ヶ原の戦い後も水谷氏の治世が続いたが、寛永16年(1639)水谷勝隆は備中国松山城に移封された後、松平右京大夫頼重、増山正弥、黒田直邦と変遷し、享保17年(1732)石川総茂が城主となって以来明治維新まで下館を支配した。 はじめ水谷氏を下館藩主とする時代の城下町は、田町・金井町・戸外町・十軒町・新宿・前宿・西宿・内宿・門前・新田・別当などで、家数270・人数1,300という。その後に入った松平頼重の時にも、水戸の城下に倣って、町立てを図っている。 町方の家数・人数は元禄11年(1698)280・1,390。享保17年(1732)320・1,600。文化3年(1806)245・1,220。天保5年(1834)364・1,637。であった。 この地の特産品である真岡木綿の殖産振興に尽力したのは黒田氏で、彼の治世当時には治水などにも業績をあげている。当地で農間余業として木綿栽培が発展した。はじめは仲買人の手により真岡(栃木県)に集荷されていたが、鬼怒川水運を利用した交通立地条件の良さを生かして木綿の集散地に成長し、江戸方面に出荷されるようになった。 本陣は中村家が勤めていたが、中村家は元禄以前から繰綿を扱う業者から穀物・木綿・酒・水油・真綿・煙草・茶などを扱う商人に成長していた。 城下町で上町には中村家をはじめとした問屋などの特権的商人が多く住み、下町には諸職人や小商人が多く住んでいた。 今 古い町並は金井町に点在する程度である。店蔵、土蔵など関東地方独特の重厚な商家の建物が残っている。どの建物も明治になって建てられたものだろうが、いかにも屋根が重そうな感じで、関西方面の瀟洒な建物とは印象が随分異なる。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 日本の地名 茨城県 平凡社 下中邦彦 1982年 |
丙の町並 |
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