渋川市白井宿の町並
白井
地図


白井宿の町並
 中世、子持村白井には白井長尾氏の居城白井城があり、近世初頭には本多・戸田・西尾・本多などが入った白井藩が置かれたが、寛永元年(1624)廃藩となり以後幕府領に組み込まれた。
江戸時代子持村の南部・西部を三国街道が通り、北牧・横堀は宿として、又白井は六斎市の立つ市場町として栄えていた。
白井は利根・吾妻郡地方と中毛地方の物資交流地で、利根川左岸への渡河点でもあり、白井藩廃藩後の寛永元年(1624)以後5日・10日を市日とする六斎市が立てられた。白井は道路中央に悪水処理の排水路があり、この水路に沿って共同井戸があった。
寛永11年(1634)の名寄帳によると、西町・東町と大ざっぱに区画され、その後新田町・八軒町・上ノ町・中ノ町・下ノ町と整備されている。南北路の道幅は、北端で8.7メートル、南端で8.3メートル、中央の最高幅員は20.15メートル。真ん中に悪水を処理した溝があり、町の長さは945メートルであった。
町の地割りは南北の主要道を挟んで,道路に直角に短冊形に設定されていて、東側は長く、西側は城郭の役目をした段丘に制約されて短い。地割りは3間幅から最高36間幅まであり、5間幅・6間幅・7間幅が最も多い。
利根川の河岸段丘にある為、地下水は低く飲料水の確保には苦労を極めた。
元禄13年(1700)の村明細帳では、火山灰土で水田に向いてないため全て畑であった。同年の家数は150・人数749。安政6年(1859)横浜開港以後は繭・生糸の生産が活発になり、活発に取引が行われた。
前述のように白井は宿場町でないのに、白井宿と呼ばれている。寛永元年(1624)の廃城後は城下町から市場町になったのだが、町並の形態は宿場町そのもので、街道の真ん中に宿場町特有の用水路まであったためだろうか。
町並は明治31年の大火後に建てられた家屋が多く、古い家屋は少ないが、道路中央に流れる用水路が当時の町並を彷彿とさせているようだ。そんな中で一部であるが土蔵造りの家屋も残り、共同井戸や路傍の石造物など、昔の佇まいを今に残していた。
町並み指数  40
参考文献
   群馬県の歴史散歩  山川出版社  群馬県高等学校教育研究会  1998年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和63
   群馬県の地名  平凡社  平凡社地方資料センター  1987年


白井宿の町並

白井宿の町並

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