渋川市北牧は利根川に注ぐ吾妻川下流左岸の河岸段丘上に位置する。 北牧村の江戸期は初め白井藩領、寛永元年(1624)から幕府領で明治を向かえる。村高は寛文郷帳では牧村と見え863石余、「元禄郷帳」にも牧村とみえ863石余、「天保郷帳」には「古者牧村 北牧村」と見え863石余、「旧高旧領」も同高。 東方の白井宿を基点とする草津道と北方に向かう三國街道が交差している要地で、宿駅が設けられていた。北牧宿が指定されたのは寛永20年(1643)頃と思われる。本陣兼問屋は2軒あり、交替制であった。 宿駅と言っても主要街道でないので、参勤交代の大名の宿泊は無く、佐渡奉行・道中奉行をはじめ、越後諸藩・沼田藩などの家中・寺院関係、それに商人の往来だった。 宿の機能は、純然たる継立と宿泊の機能を有した宿場で、飯盛り女は置かれて無く、、旅籠屋10軒・店4軒であった。 江戸後期の御改革組合村高帳では家数159、明治10年頃の家数165・人数687。農桑・製糸に従事する女子195人、産物には生糸98貫文などがあった。 今、旧宿場を歩いても、上野国北牧宿の案内看板は見られるが、それらしき町並は残っていない。旧街道筋が国道353号線となり、拡張工事のために古い家屋が取り壊された様で、当時の土蔵と思はれる建物が、旧街道筋に散見でき、巨大な敷地と建物を有する民家が見られたので、当時の豪商・豪農の子孫かもしれないと思いながらの探索だった。 角川日本地名大辞典 角川書店角川 日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 群馬県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1987年 |
北牧の町並 |
北牧の町並 |
北牧の民家 |
北牧の町並 |
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北牧の町並 |
北牧の町並 |
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