佐野市の中心部は碁盤目状の町割りで有名である。 佐野信吉は豊臣秀吉から天正20年(1592)佐野領3万9千石を安堵されたが、関ヶ原の戦い後の慶長7年(1602)、佐野信吉は突如徳川家康から春日岡への築城を命じられ、慶長12年(1607)唐沢山城を廃し、築城中の春日城に移った。そして慶長19年(1614)信吉は改易となった。その原因はよく判っていないが、縁類の大久保長安・大久保忠隣事件に連座した説や豊臣氏縁故の外様大名取り潰し策のためとも云われている。 信吉改易後廃藩と立藩を繰り返し、文政9年(1826)堀田正敦が入封して何度目かの佐野藩が成立し、堀田氏の支配のまま明治維新を迎えている。 佐野市の中心部が碁盤目状に町割されているのは、慶長年間に佐野信吉が春日岡城の築城と同時に進めた城下町の建設での町割りである。碁盤目の突き当たりには寺院が配置されているのが大きな特徴である。 佐野が城下町として機能したのは、佐野信吉改易迄でその後は、天明宿を中心に産業・交通の結節点として栄え町場化していた。 江戸時代を通じて日光例幣使街道の宿場天明宿の中心として栄えていた。小屋町と天明町の二つの町を合わせた全体で天明宿の機能を果たし、本陣は小屋町の置かれ、松村氏が代々その職にあった。天保年間(1830〜44)の家数は小屋町522軒・天明町573軒であった。 日光東照宮の完成と共に、中山道倉賀野宿から日光に至る例弊使街道の宿駅の一つとなった。町並の長さは東西16町48間。天保14年(1843)の宿内人数・家数は小屋町・天明町合わせて4,149人・1,095軒、旅籠は8軒あった。 宿場として発展したこの地も、在町として中世以来の鋳物や織物などの産業が盛んであった。特に天明鋳物と称された鋳物業は京都にまで知られた特産品であった。 慶長7年(1602)からの佐野信吉による城下町建設に伴って、金屋町に鋳物師が集められ70名にもなった。文政11年(1828)の全国の「鋳物師名前帳」には全国の鋳物師を統率していた京都真鍋家支配の鋳物師が500名ほど記されているが、当地の鋳物師は23名で全国第4位の鋳物師数である。 その鋳物の作品で有名なのが、慶長19年(1614)から豊臣秀頼によって復興されようとした京都方向寺大仏殿の梵鐘がある。この梵鐘に「国家安康 君臣豊楽」と刻まれていたことが契機で豊臣氏が滅亡したことは広く知られている。 今も例幣使街道沿いの大町・万町・本町や金屋仲町・大和町・大祝町・天明町などに伝統的な古い民家が連なっていたり、点在したりしている。大きな商家様式の建物は殆ど店蔵のようで、大きな厳つい鬼瓦を乗せた重厚な建物である。その建物も平入りで2階建てが多いのは、明治になってから建てられたようで、中には特異な卯建を揚げた民家も見られた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59年 日本の地名 栃木県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1988年 栃木県の歴史散歩 山川出版社 栃木県の歴史散歩編集委員会 1999年 |
大町の卯建 |
本町の町並 |
大祝町の正野家 |
金屋仲町の町並 |
金屋仲町の町並 |
金屋仲町の太田家 |
仲町通り天明町の町並 |
仲町通り大和町の町並 |
仲町通り大和町の町並 |
亀井町の町並 |