さくら市喜連川は栃木県の中央からやや北東寄りの荒川と内川の合流点の内側の低位段丘上に位置する。 江戸期は当地に居館を置く喜連川氏領(通称喜連川藩領)として幕末に至る。 足利頼純の長男国朝は、豊臣秀吉の命で名家古河公方義氏の家を継ぎ、喜連川3,500石を与えられた。更に徳川家康からも本領を安堵され、名族として優遇されて5千石ながら10万石大名と同じ格式を与えられた。「五千石国主」「喜連川公方」などと呼ばれ、参勤交代の義務もなく「お役御免」の特権を与えられていて、当町は喜連川氏の陣屋の置かれる小城下町として発展した。 喜連川宿は慶長年間(1596〜1615)以来奥州街道の宿場として栄えた。天保年間(1830〜44)の記録によると、宿は17町20間で、家数290・人数1,198、本陣・脇本陣各1であった。 喜連川氏は幕府においては優遇されていたが、藩の財政は苦しく、本陣や脇本陣は藩主によって金銭による召し上げが行われていた。 村高は「慶安郷帳」1,300石余、「元禄郷帳」1,031石余、「天保郷帳」1,633石余、「旧高旧領」1,587石余。 天保年間(1830〜44)の家数155。安政年間(1854〜60)では家数290・人数1,198、本陣・脇本陣は本町に各1軒、旅籠屋は29軒あった。 近世には陣屋町・宿場町として栄えていた喜連川町も、明治以降は主要交通路から外れ、小さな商圏の地方の在町となってしまった。 今古い町並みは、旧奥州街道筋の本町・仲町辺りで展開しているようだが、訪ねたのは旧街道筋でなく、武家屋敷街である。小さな流れ(御用堀)に沿って板塀や土塀に門を備えたり、生垣で囲まれた旧武家屋敷街であって、街道筋を訪ね損なったのはチョット残念な町並み探訪だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59年 日本の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1988年 |
喜連川武家屋敷の町並 |
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喜連川武家屋敷の町並 |
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