大田原市佐良土の町並み 
佐良土
地図


佐良土の町並
 大田原市佐良土は栃木県の北東部、那珂川とその支流箒川が合流する地点から北西に広がる那須扇状地の扇端部に位置する。
江戸はじめは那須藩領、寛永年間(1624〜44)幕府領、、元禄6年(1693)からは旗本坂本氏・久世氏の相給。村高は「慶安郷帳」では245石余、「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,050石余。天保年間(1830〜44)の家数51。慶安4年(1651)の「下野一国」によると那珂川沿いに佐良土河岸が見え、河川運輸が行われていたことが判る。
佐良土村の中心部は、古宿・仲宿・田宿の町場からなり、関街道沿いに丁字形に町並が続き、箒川の渡し場、法輪寺の門前町、佐良土館の城下町の性格を持っていた。
屋号を持つ家も多く、仲宿では22軒・古宿では30軒・田宿では25軒の屋号が確認されている。
那珂川の佐良土河岸は明暦元年(1655)の開設と伝えられている。寛文9年(1669)の約定で、上流への登り荷は全て佐良土河岸で陸揚げとなっていたが、安政2年(1855)頃から黒羽河岸まで陸揚げすることなく川を登ることを企てる者が現れ、佐良土河岸問屋と黒羽下河岸問屋との間に争いが起こっている。
町並の東に佐良土館跡がある。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原北条氏攻めに参戦しなかった那須資晴は所領を没収され、烏山城を明け渡してこの佐良土に退いたときに建てたものと云われている。
江戸時代、この佐良土村を含むこの地域での支配関係は、小さく分割され幕府領と旗本領が複雑に入り込み相給支配地が多く、荒廃化が進み天保年間(1830〜44)には極限状態だった。例えば佐良村の北の湯津上村の場合では、旗本4氏の相給で元禄年間(1688〜1704)村高889石余、家数150軒のところ、天保年間(1830〜44)には457石余、家数43軒という具合で、まさに亡村の危機に瀕していた。数多く街道筋の助郷役免除を含めた年貢減免の訴えを出されたが、領主側の積極的な対応も無く幕末をむかえている。
今町並みを歩くと、当時の屋号を街道筋に掲げた光景が見られる。古い町並みとは言い難いが、屋号を掲げた町並みに敬意を払い掲載した次第です。
町並み指数 30
参考文献     
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和59年
  日本の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1988年

佐良土の町並

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